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kado lesson Rikka
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the beautiful life,the traditional korean wedding
222 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん@転載禁止[] 投稿日:2014/05/13(火) 15:46:20.08 ID:4+OvXQ+y [3/3]
>>1
グーグル韓国で「昔 結婚 写真」で検索した画像
http://cafefiles.naver.net/data9/2005/7/23/94/%B0%E1%C8%A5%BD%C4old_1.jpg
ttp://cfs8.blog.daum.net/image/35/blog/2008/08/26/14/10/48b38ff718bea&filename=%EC%8A%A4%EC%BA%94%EC%97%84%EB%A7%88%EC%95%84%EB%B9%A0.bmp
http://cfs13.blog.daum.net/image/8/blog/2008/05/17/00/54/482dad2b8ce13&filename=10.jpg
ttp://cfile212.uf.daum.net/image/145D130E4A08D8E791A6C7
ttp://cfile201.uf.daum.net/image/1343981349BB3708545046
1910年代の白黒写真に無理やり色付け加工したもの
http://blog.joins.com/media/folderListSlide.asp?uid=cammucha&folder=14&list_id=10015349
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Three Kingdoms of Korea in TV drama
http://navicon.jp/osusume/cid343697/
삼국 시대(三國時代)
ドラマになった三国時代(高句麗、新羅、百済)
【特集/韓ドラここが知りたい/ドラマで知る歴史】
歴史ドラマの多くは朝鮮王朝が舞台の作品が多いが、英雄モノやアクションが好みの方は朝鮮王朝以前にも目を向けてみよう。今回は、高句麗、新羅、百済の三つ巴の時代“三国時代”からドラマで当時の歴史をたどってみたい。
まず韓国歴史年表を確認しよう。半島の歴史は紀元前2333年の檀君朝鮮から始まったとされている。後の李氏朝鮮王朝と区別するため古朝鮮と呼ばれている。日本では縄文時代末期のことで、この時代を神話と見るか歴史的事実と見るかは歴史のプロの判断に任せ、韓ドラおすすめ隊ではこの時代を半島の起源として話を進めよう。
当時の歴史的背景は、【古朝鮮~三国時代】チュモン王、ソドン王、タムドク王の生きた時代のページを先に確認しておいてほしい(読んだ後はページを閉じて♪)
韓国で一般に考えられている半島の正しい血統というのは、檀君に始まり、それを受け継いだ高句麗、高麗へと受け継がれたとされている。両親ともに王族の者を“聖骨”と呼び、これを正当な王位後継者としていた。しかし、朝鮮王朝は、聖骨でない一介の将軍の李成桂が受け継いでいる。朝鮮王朝に入ると、前の時代以上に階級や格式にやかましいのは、ひょっとしてこのあたりに関係しているのかもしれない。
では、ドラマの神話(古朝鮮)~三国時代年表で当時をたどってみよう(この表は最後まで開いたままにしておく)。それぞれのドラマのタイトルの先頭に(高)とあるのは高句麗、(新)は新羅、(百)は百済で、圧倒的に高句麗を舞台にしたドラマの多いことが見てとれる。どうやら聖骨を受け継いだ高句麗に人気が集中しているようだ。次に三国時代の地図で3つの国の地理的な位置を確認しておこう(この地図も開いたまま)。新羅と百済が隣り合わせで互いを脅かし、高句麗と新羅はつばぜり合いで、その境界は時代ごとに大きくスライドする。これに伽耶国が加わって世はまさに戦国時代だ。
高句麗という時代をドラマでたどるには、始祖の東明聖王を主人公にした「朱蒙」から観るのが定石。しかし、高句麗の神聖性を理解するには、先に「太王四神記」の第1話を見ておくとよい。(C)TSG Production Company LLC.つまり、韓ドラの歴史ドラマは「太王四神記」の第1話から始まったといっていいかも知れない。但し、このドラマは神話をベースに書き起こされたファンタジーだということをお忘れなく。続いて、「朱蒙」「風の国」「幻の王女チャミョンゴ」「太王四神記」「淵蓋蘇文」と順にドラマを観ると、高句麗の全体像がつかめるが、「幻の王女」は「太王四神記」の第1話と同じくファンタジー性が高く、ロマンスがメインテーマなので、そこを理解しておくこと。
ただ、「朱蒙」「風の国」「幻の王女」の3作は、チュモン本人から孫、曾孫の4代に渡る“華麗なる一族”の物語なので、チュモンつながりで続けて見るのも一興だ。もっとも、「風の国」の主人公、ムヒュルの描かれ方が「風の国」と「幻の王女」とでは全く違うので、ソン・イルグクが演じたムヒュルのファンの方は覚悟してからご覧になるように。びっくり仰天間違いなし!
先ほど開いたドラマの年表をもう一度見て、ページ最後に4本のドラマがひしめいているのを確認して欲しい。そのうち2本は百済と新羅が舞台のドラマだ。「朱蒙」では、百済を建国したのはヒロイン、ソソノ嬢の次男で、チュモンの実子ではない設定になっている。しかし「三国史記」にはチュモンの実子と記されている。つまり、高句麗の第2代ユリ王の義母弟ということになる。そして、高句麗と百済は同属と見なされている。百済は日本と友好関係にあった国で「日本書紀」には登場しているが、残された資料は少なく、謎の多い国とされてきた。その意味では、「薯童謠」ははじめて本格的に百済という国を描いた意味深い1作といえよう。「薯童謠」は、百済30代武王となったチャン王子の英雄伝に、新羅の姫との悲恋を絡ませた素晴らしいドラマ。「チャングムの誓い」スタッフが再集結して作った作品で、韓ドラおすすめ隊イチ押し作品だ。
MBC&iMBC All right reserved.ところで、新羅は後に半島を統一する国でありながら、ドラマ化されているのは「善徳女王」と統一新羅時代の「海神」ぐらいと少ない。新羅は、百済と違って資料も残っているはずだが…。これには、何か理由があるはず。ひょっとすると、新羅が唐(中国)と連合して高句麗を滅ぼしたことで、冷遇されているのかもしれない。そうだとすれば、新羅は何故唐と手を組んだのか?それなりの理由があったはず。この答えは、「善徳女王」と「淵蓋蘇文」のドラマにあった。
「善徳女王」は新羅の27代女王で、この時代、新羅は高句麗と百済との同盟によって孤立した状況に追い込まれていた。そこで唐(中国)に望みを託したが、高句麗&百済の連合軍に邪魔され唐への連絡路を絶たれてしまった。おまけに百済と伽耶に挟まれるように攻め入られた新羅は、仕方無しに高句麗に助けを求めた。しかし、高句麗の武将ヨンゲソムンはキム・チュンチュ(後の29代武烈王)を助けるどころか監禁してしまった。どうにか脱出に成功したキム・チュンチュは「こうなりゃ、唐と手を組んでやっつけてやる!」とばかりに唐に近づき、とうとう、高句麗と百済は新羅&唐の連合軍にやられてしまうのだ。新羅はこれによって半島統一を果たした。もしあの時、高句麗がキム・チュンチュを助けていれば…歴史に、“もし”も“~れば”もありえないが、「淵蓋蘇文」を見て思わず考えてしまった。「淵蓋蘇文」は、高句麗の武将ヨンゲソムンを英雄として好意的に描いているが、「大祚榮」では彼のことを別の見方で描いている。先ほどのムヒュル(チュモンの孫)もそうだが、実在の同一人物が、ドラマの描き方でいくようにも変わる。これが歴史ドラマの醍醐味だ!
この後半島は統一新羅として新羅が治める。しかし、北部地方には高句麗の血を受け継ぐ渤海が新羅を睨んでいた。
삼국 시대(三國時代)
ドラマになった三国時代(高句麗、新羅、百済)
【特集/韓ドラここが知りたい/ドラマで知る歴史】
歴史ドラマの多くは朝鮮王朝が舞台の作品が多いが、英雄モノやアクションが好みの方は朝鮮王朝以前にも目を向けてみよう。今回は、高句麗、新羅、百済の三つ巴の時代“三国時代”からドラマで当時の歴史をたどってみたい。
まず韓国歴史年表を確認しよう。半島の歴史は紀元前2333年の檀君朝鮮から始まったとされている。後の李氏朝鮮王朝と区別するため古朝鮮と呼ばれている。日本では縄文時代末期のことで、この時代を神話と見るか歴史的事実と見るかは歴史のプロの判断に任せ、韓ドラおすすめ隊ではこの時代を半島の起源として話を進めよう。
当時の歴史的背景は、【古朝鮮~三国時代】チュモン王、ソドン王、タムドク王の生きた時代のページを先に確認しておいてほしい(読んだ後はページを閉じて♪)
韓国で一般に考えられている半島の正しい血統というのは、檀君に始まり、それを受け継いだ高句麗、高麗へと受け継がれたとされている。両親ともに王族の者を“聖骨”と呼び、これを正当な王位後継者としていた。しかし、朝鮮王朝は、聖骨でない一介の将軍の李成桂が受け継いでいる。朝鮮王朝に入ると、前の時代以上に階級や格式にやかましいのは、ひょっとしてこのあたりに関係しているのかもしれない。
では、ドラマの神話(古朝鮮)~三国時代年表で当時をたどってみよう(この表は最後まで開いたままにしておく)。それぞれのドラマのタイトルの先頭に(高)とあるのは高句麗、(新)は新羅、(百)は百済で、圧倒的に高句麗を舞台にしたドラマの多いことが見てとれる。どうやら聖骨を受け継いだ高句麗に人気が集中しているようだ。次に三国時代の地図で3つの国の地理的な位置を確認しておこう(この地図も開いたまま)。新羅と百済が隣り合わせで互いを脅かし、高句麗と新羅はつばぜり合いで、その境界は時代ごとに大きくスライドする。これに伽耶国が加わって世はまさに戦国時代だ。
高句麗という時代をドラマでたどるには、始祖の東明聖王を主人公にした「朱蒙」から観るのが定石。しかし、高句麗の神聖性を理解するには、先に「太王四神記」の第1話を見ておくとよい。(C)TSG Production Company LLC.つまり、韓ドラの歴史ドラマは「太王四神記」の第1話から始まったといっていいかも知れない。但し、このドラマは神話をベースに書き起こされたファンタジーだということをお忘れなく。続いて、「朱蒙」「風の国」「幻の王女チャミョンゴ」「太王四神記」「淵蓋蘇文」と順にドラマを観ると、高句麗の全体像がつかめるが、「幻の王女」は「太王四神記」の第1話と同じくファンタジー性が高く、ロマンスがメインテーマなので、そこを理解しておくこと。
ただ、「朱蒙」「風の国」「幻の王女」の3作は、チュモン本人から孫、曾孫の4代に渡る“華麗なる一族”の物語なので、チュモンつながりで続けて見るのも一興だ。もっとも、「風の国」の主人公、ムヒュルの描かれ方が「風の国」と「幻の王女」とでは全く違うので、ソン・イルグクが演じたムヒュルのファンの方は覚悟してからご覧になるように。びっくり仰天間違いなし!
先ほど開いたドラマの年表をもう一度見て、ページ最後に4本のドラマがひしめいているのを確認して欲しい。そのうち2本は百済と新羅が舞台のドラマだ。「朱蒙」では、百済を建国したのはヒロイン、ソソノ嬢の次男で、チュモンの実子ではない設定になっている。しかし「三国史記」にはチュモンの実子と記されている。つまり、高句麗の第2代ユリ王の義母弟ということになる。そして、高句麗と百済は同属と見なされている。百済は日本と友好関係にあった国で「日本書紀」には登場しているが、残された資料は少なく、謎の多い国とされてきた。その意味では、「薯童謠」ははじめて本格的に百済という国を描いた意味深い1作といえよう。「薯童謠」は、百済30代武王となったチャン王子の英雄伝に、新羅の姫との悲恋を絡ませた素晴らしいドラマ。「チャングムの誓い」スタッフが再集結して作った作品で、韓ドラおすすめ隊イチ押し作品だ。
MBC&iMBC All right reserved.ところで、新羅は後に半島を統一する国でありながら、ドラマ化されているのは「善徳女王」と統一新羅時代の「海神」ぐらいと少ない。新羅は、百済と違って資料も残っているはずだが…。これには、何か理由があるはず。ひょっとすると、新羅が唐(中国)と連合して高句麗を滅ぼしたことで、冷遇されているのかもしれない。そうだとすれば、新羅は何故唐と手を組んだのか?それなりの理由があったはず。この答えは、「善徳女王」と「淵蓋蘇文」のドラマにあった。
「善徳女王」は新羅の27代女王で、この時代、新羅は高句麗と百済との同盟によって孤立した状況に追い込まれていた。そこで唐(中国)に望みを託したが、高句麗&百済の連合軍に邪魔され唐への連絡路を絶たれてしまった。おまけに百済と伽耶に挟まれるように攻め入られた新羅は、仕方無しに高句麗に助けを求めた。しかし、高句麗の武将ヨンゲソムンはキム・チュンチュ(後の29代武烈王)を助けるどころか監禁してしまった。どうにか脱出に成功したキム・チュンチュは「こうなりゃ、唐と手を組んでやっつけてやる!」とばかりに唐に近づき、とうとう、高句麗と百済は新羅&唐の連合軍にやられてしまうのだ。新羅はこれによって半島統一を果たした。もしあの時、高句麗がキム・チュンチュを助けていれば…歴史に、“もし”も“~れば”もありえないが、「淵蓋蘇文」を見て思わず考えてしまった。「淵蓋蘇文」は、高句麗の武将ヨンゲソムンを英雄として好意的に描いているが、「大祚榮」では彼のことを別の見方で描いている。先ほどのムヒュル(チュモンの孫)もそうだが、実在の同一人物が、ドラマの描き方でいくようにも変わる。これが歴史ドラマの醍醐味だ!
この後半島は統一新羅として新羅が治める。しかし、北部地方には高句麗の血を受け継ぐ渤海が新羅を睨んでいた。
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Korean 'Comfort Women' Not Prostitutes; New Caledonia, 1944
http://www.nytimes.com/1992/03/12/opinion/l-korean-comfort-women-not-prostitutes-new-caledonia-1944-991792.html
Korean 'Comfort Women' Not Prostitutes; New Caledonia, 1944
Published: March 12, 1992
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To the Editor:
Rita Nakashima Brock (letter, Feb. 23) states that prostitution "has a long history in every military society, including ours."
In 1944 I was an infantry officer stationed in New Caledonia in the Pacific. As officer of the day, I was once stationed at a house of prostitution in Noumea. My duty was to see that there were no disturbances in the running of the house, that each American soldier entering had a liberty pass, paid his fee to an American G.I. and was examined by United States medical personnel.
When he came downstairs again, he had to go through prophylactic treatment. I had military police with me in case any of the Americans caused trouble or refused treatment. A few soldiers, perhaps too drunk to follow procedures, were removed by M.P.'s and sent back to barracks.
The prostitutes were mainly women imported from such countries as Malaysia and Thailand.
We should not throw stones but study our own racist and antifeminist history, as well as that of the Japanese. MORRIS BRIER Jamaica, Queens, Feb. 24, 1992
Korean 'Comfort Women' Not Prostitutes; New Caledonia, 1944
Published: March 12, 1992
To the Editor:
Rita Nakashima Brock (letter, Feb. 23) states that prostitution "has a long history in every military society, including ours."
In 1944 I was an infantry officer stationed in New Caledonia in the Pacific. As officer of the day, I was once stationed at a house of prostitution in Noumea. My duty was to see that there were no disturbances in the running of the house, that each American soldier entering had a liberty pass, paid his fee to an American G.I. and was examined by United States medical personnel.
When he came downstairs again, he had to go through prophylactic treatment. I had military police with me in case any of the Americans caused trouble or refused treatment. A few soldiers, perhaps too drunk to follow procedures, were removed by M.P.'s and sent back to barracks.
The prostitutes were mainly women imported from such countries as Malaysia and Thailand.
We should not throw stones but study our own racist and antifeminist history, as well as that of the Japanese. MORRIS BRIER Jamaica, Queens, Feb. 24, 1992
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the Chinese traditional fashion
http://blog.livedoor.jp/drazuli/archives/7051903.html
2014年01月23日12:00 / カテゴリ:海外の反応
「秦王朝から現代までの中国の女性ファッションの変遷が簡単に分かるスレ」海外の反応
Comment by Anonymous
中国人女性服のファッションタイムライン
1
1:秦から漢王朝・・・一枚の布からなる服が女性のフォーマルな装い
2:魏から晋王朝・・・大きめで緩い服装
3:北朝
2
4:魏、晋、南北朝
5:南北朝
6:隋王朝
3
7:唐王朝・・・隋王朝を参考にした服装
8:唐王朝・・・他国の影響を受けると同時に他国にも影響を
9:中後期の唐王朝・・・緩い服装に
4
10:宋王朝・・・纏足が貴族階級で流行し始める
11:元王朝・・・中国がモンゴルの支配下に
12:明王朝・・・自治を取り戻し元王朝の習慣が廃止に
5
13:明王朝
14:明王朝
15:清王朝・・・中国が満州人によって支配される。
6
16:清王朝・・・満州人が幾度も纏足を禁止するが不成功に。
17:1927年・・・天然おっぱい運動。漢人が纏足を禁止するも不成功に
18:旗袍・・・元々は満州人の服装で1920年頃中国の服になった。
7
19:西洋化が進みボディを強調する服装に。1949年に纏足が姿を消す。
20:旗袍は1960年代後半まで香港で日常服として着用される。
21:現代。
これを描いた人のdeviantartのリンク:http://lilsuika.deviantart.com/
こっちはtumblrのリンク:http://nannaia.tumblr.com/
ほかのタイムラインもdeviantartにあってすごいからあるからぜひ見てみて。
imgur.com/gallery/AuMIP
Comment by KickInTheEye 1 ポイント
纏足が根絶されてからまだたった63年しか経っていなかったとは知らなかった。
女真族(満州族)の建てた清朝が纏足禁止令を出しても止めようがなく、結局、義和団の乱以後の近代国家への動きの中で反対運動が起こり、まずは都市部で罰則との関係で下火になった。
しかし隠れて行われ、中国全土で見られなくなるのは第二次世界大戦後のこととなる。最終的に絶えた理由として文化大革命で反革命的行為と見なされたこともある。
2014年01月23日12:00 / カテゴリ:海外の反応
「秦王朝から現代までの中国の女性ファッションの変遷が簡単に分かるスレ」海外の反応
Comment by Anonymous
中国人女性服のファッションタイムライン
1
1:秦から漢王朝・・・一枚の布からなる服が女性のフォーマルな装い
2:魏から晋王朝・・・大きめで緩い服装
3:北朝
2
4:魏、晋、南北朝
5:南北朝
6:隋王朝
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7:唐王朝・・・隋王朝を参考にした服装
8:唐王朝・・・他国の影響を受けると同時に他国にも影響を
9:中後期の唐王朝・・・緩い服装に
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10:宋王朝・・・纏足が貴族階級で流行し始める
11:元王朝・・・中国がモンゴルの支配下に
12:明王朝・・・自治を取り戻し元王朝の習慣が廃止に
5
13:明王朝
14:明王朝
15:清王朝・・・中国が満州人によって支配される。
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16:清王朝・・・満州人が幾度も纏足を禁止するが不成功に。
17:1927年・・・天然おっぱい運動。漢人が纏足を禁止するも不成功に
18:旗袍・・・元々は満州人の服装で1920年頃中国の服になった。
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19:西洋化が進みボディを強調する服装に。1949年に纏足が姿を消す。
20:旗袍は1960年代後半まで香港で日常服として着用される。
21:現代。
これを描いた人のdeviantartのリンク:http://lilsuika.deviantart.com/
こっちはtumblrのリンク:http://nannaia.tumblr.com/
ほかのタイムラインもdeviantartにあってすごいからあるからぜひ見てみて。
imgur.com/gallery/AuMIP
Comment by KickInTheEye 1 ポイント
纏足が根絶されてからまだたった63年しか経っていなかったとは知らなかった。
女真族(満州族)の建てた清朝が纏足禁止令を出しても止めようがなく、結局、義和団の乱以後の近代国家への動きの中で反対運動が起こり、まずは都市部で罰則との関係で下火になった。
しかし隠れて行われ、中国全土で見られなくなるのは第二次世界大戦後のこととなる。最終的に絶えた理由として文化大革命で反革命的行為と見なされたこともある。
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sado lesson
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kado lesson
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the history of business suits in Korea
http://blog.theshirtsstudio.com/238
한 눈에 보는 한국 남성 정장의 역사
셔츠 트렌드서칭 2013/07/10 09:33
패션시대인 요즘 남성복도 눈이 부시게 진화하고 있어요. 주변만 살펴봐도 다양한 남성 패션 브랜드 매장들을 어렵지 않게 찾을 수 있는데요. 사실 한국의 남성 정장의 역사는 100여 년 밖에 되지 않는 짧은 역사를 지니고 있답니다.
오늘은 우리에겐 익숙한 이 남성 정장에 대해 이야기해볼까 해요. 바로 대한민국의 남성 정장의 역사말이죠. 여러분도 은근 궁금하지 않으신가요? 도대체 언제 들어왔는지, 어떻게 발전을 해왔는지.
매일 혹은 자주 입는 남성 정장. 오늘부턴 우리나라의 역사 정돈 알면서 입는 것은 어떨까요?
1. 한국 남성 정장 역사의 시작
우리나라의 정장의 시작 시점에 대해선 2가지 관점이 있어요. 하나는 우리 땅에 정장을 입고 들어온 때, 쉽게 말해 정장을 입은 사람들과 교류를 시작한 문호개방의 시기이고, 다른 하나는 양복을 제도로서 허용한 시기이냐의 문제인데요. 흔히 우리나라 양복의 시작이라고 하면 보통 제도로서 허용한 1895년을 기준으로 시작했다고 할 수 있습니다.
고종황제 대례복고종황제 연미복
* 고종황제의 대례복(좌), 연미복(우)
1895년은 우리 역사에 피 눈물이 맺힌 명성황후 시해사건이 벌어진 해이기도 한데요. 이 사건으로 친러시아 세력이 물러나고 친일세력이 내각으로 자리잡게 되죠. 이 후 내각은 고종을 설득해 개혁조치를 내리게 했는데요. 이 개혁조치의 3가지 포인트는 음력 폐지, 단발령, 그리고 바로 외복제도에 대해 외국제를 사용해도 무방하게 하는 양복 공인이었답니다.
2. 양복에 대한 반발
1895년 양복착용이 공인된 후, 이에 대한 반발은 무척이나 강했어요. 이 당시의 분위기는 양력을 쓰고 머리를 깎으며 양복을 입는 일에 대해 저항하는 것이 민족적 의분이라고 까지 생각했었죠. 이에 따라 독립신문을 포함한 각종 언론에서 문호개방에 대한 긍정적인 모습을 선전하기 시작했고 관복 또한 새롭게 양복화된 모습으로 변하게 되었답니다.
이 후 1910년 한일합방이 되자 양복은 곧 매국의 상징이 되어버리고 말았는데요. 친일파의 조직인 일진회의 지나치친 의식개혁 운동이 국민들의 증오를 한층 더 불러일으켰기 때문이에요. 그러나 서양의 물결은 어떤 내부적 힘으로는 막을 수가 없는 상황이 이어졌으며 양복은 점차 우리나라에서 뿌리를 내리게 되었답니다. 19세기 말부턴 서울을 비롯한 평양, 부산 등의 대도시에서 양복점이 생겨난 시점이기도 하죠.
3. 양복의 확산
1919년 3월 1일, 삼일독립운동은 문화적 측면에서도 일대의 전기가 되었습니다. 삼일 운동 이후 사회 풍속의 급전으로 구시대와 신시대의 윤리적 충돌이 현저하게 나타났는데요. 1920년대에 들면서 남성 정장의 수요는 급격하게 증가되었고, 양복점의 개설은 생활의 안정을 도모하는 인기 직업이 되었답니다.
셋단추 정장 한국 정장 역사
이 시기에는 남성 정장에 대한 기술을 배우려는 사람들이 부쩍이나 늘어 기술을 가르치는 실습소는 대성황을 누리게 됩니다. 서울을 비롯한 전국의 중요도시에서 양복 실습소는 대박을 누리게 되었죠.
4. 양복의 발전 그리고 암흑기
1930년대 일제 하에서 양복업계는 그 규모가 커졌어요. 위에서 언급했듯 그 기술을 배우려는 사람들도 엄청 늘어났죠. 이 시기에 업계가 성장할 수 있었던 것은 지배자나 피지배자 모두가 근대화에 대한 강한 의지가 있었기 때문인데요. 이런 시대적 물결을 타고 양복은 전국에 널리 퍼져나갔답니다. 이런 현상은 제2차 세계대전이 발발한 1939년까지 지속되었죠.
제2차 세계대전 이후 극심한 경기침체가 이어지며 양복업계에서는 배급제가 실시되며 한인들이 운영하는 영세한 양복점이 수선방으로 전락해 우리 양복 업계는 암흑기를 겪기 시작했답니다.
5. 광복 후 새로운 진화
1945년 8월 15일. 우리 민족사에 영원히 남을 날이에요. 이때 남성 정장 업계도 새로운 진화가 시작되었는데요. 그간 일본인들이 독점하던 양복 업계를 다시 찾은 것이죠. 우리 양복인들은 한자리에 모여 앞으로 양복 업계의 장래를 위해 다양한 의견을 나누고 발전에 대해 머리를 조아리게 되었습니다. 이때 양복인들의 단체인 전선복장연구회가 태동하게 되었답니다.
6. 한국 전쟁 = 새물결의 시작
한국전쟁은 한국 남성 정장의 역사에 있어서도 일대 전기가 되었어요. 군복의 활용은 극히 자연스럽게 받아들여 졌으며 군복 등을 탈색해 입을 수 있었던 사람은 오히려 선택된 계층이기도 했죠. 하지만 사회의 엘리트 계층은 그래도 신사복을 입고 다녔답니다.
이승만 정장역사
또 하나의 패션 현상으로 해외에서 들어오는 구호품 의류의 착장을 들 수 있어요. 서양인이 입던 의류는 너무 커서 그대로 입을 수 없었기 때문에 줄여서 입는 시기가 도래했는데요. 당시 피난 양복인들은 부산에 모여 군복의 수선과 구호품의 사이즈를 줄여가며 생활을 이어갔답니다. 이처럼 한국전쟁은 양복사에서 암흑기라고 할 수 있지만 이 시기야 말로 그 후 펼쳐진 새로운 물결에 밑거름이 되는 시기라고 볼 수 있습니다.
7. 맞춤정장의 전성기
1950년대 중반부터 붐이 일어난 양복의 수요는 1960년에 들면서 폭발적으로 늘어났습니다. 대도시는 물론 읍 단위의 작은 도시에서도 중심가에는 꼭 양복점이 들어섰죠. 이 시기에는 국내 복지회사가 계속 창설되 복지가 흔하게 됨으로서 판촉 활동이 활발하게 되며 양복의 기술 발전이 눈부시는 시기였답니다.
1967년 7월 스페인에서 열린 국제기능올림픽 양복직종에 홍근삼씨가 참가해 금메달을 획득했는데요. 뜻 밖의 결과에 모든 양복인들이 기뻐했고 국위선양에 대한 자신감이 들뜨기도 했습니다. 당시 양복과 제화 부문은 입상의 기대조차 하지 않았고 이에 따라 모든 비용을 자비로 출전해야 했기 때문이에요.
이후 우리나라는 이 분야에서 내리 12연패의 위업을 달성했고 그만큼 국내 양복기술이 국제적으로 인정받았답니다.
8. 근대 정장 이야기
1970년 초에 들어서며 공급이 수요를 초과하는 불황을 맞게 됩니다. 시민들의 개념 또한 '입는다'라는 개념에서 '연출한다'는 개념으로 이전되었고 이에 따라 정장 문화는 새로운 전환점에 들어서게 되죠. 때문에 필연적으로 기술 향상과 고급화의 추세로 나가가기 시작했답니다.
더셔츠스튜디오 한국 공장
1980년대의 개막은 많은 도전과 희망을 맞은 시기에요. 1983년에 들어서면서 일부 대기업에서 대규모의 기성복을 제조하기 시작하며 양복업계에 충격을 주었죠. 이후 점차 경제적으로 안정을 찾아가며 기성복 중심의 트렌드가 지금까지 이어지고 있답니다.
1990년대에 들어서는 남성 패션 브랜드의 수가 증가하며 춘추전국시대를 맞이했고 셔츠와 넥타이 등을 전문적으로 파는 전문 브랜드도 등장하게 됩니다. 그리고, 오늘날. 여러분이 매일 그리고 자주 입는 현재의 정장&셔츠로 이어지게 되었답니다^^
'휴-' 19세기 부터 시작된 우리나라 남성 정장의 역사에 대해 알아봤어요. 기나긴 여정을 한 눈에 정리하니 만만치 않네요^^; 저 역시 매일 정장과 셔츠를 입지만 이런 역사를 알기 전과 후의 느낌은 사뭇 다르답니다. 입을 때 마다 은근히 역사가 생각나면서 '과거엔 이랬겠지?'라는 생각을 하기도 하죠.
우리가 흔히 입은 정장. 멋스러움과 자기만의 개성을 뽐낼 수 있는 요즘. 과거의 역사를 돌아보며 선배, 선조들의 노력에 감사한 마음 가져봅니다^^
한 눈에 보는 한국 남성 정장의 역사
셔츠 트렌드서칭 2013/07/10 09:33
패션시대인 요즘 남성복도 눈이 부시게 진화하고 있어요. 주변만 살펴봐도 다양한 남성 패션 브랜드 매장들을 어렵지 않게 찾을 수 있는데요. 사실 한국의 남성 정장의 역사는 100여 년 밖에 되지 않는 짧은 역사를 지니고 있답니다.
오늘은 우리에겐 익숙한 이 남성 정장에 대해 이야기해볼까 해요. 바로 대한민국의 남성 정장의 역사말이죠. 여러분도 은근 궁금하지 않으신가요? 도대체 언제 들어왔는지, 어떻게 발전을 해왔는지.
매일 혹은 자주 입는 남성 정장. 오늘부턴 우리나라의 역사 정돈 알면서 입는 것은 어떨까요?
1. 한국 남성 정장 역사의 시작
우리나라의 정장의 시작 시점에 대해선 2가지 관점이 있어요. 하나는 우리 땅에 정장을 입고 들어온 때, 쉽게 말해 정장을 입은 사람들과 교류를 시작한 문호개방의 시기이고, 다른 하나는 양복을 제도로서 허용한 시기이냐의 문제인데요. 흔히 우리나라 양복의 시작이라고 하면 보통 제도로서 허용한 1895년을 기준으로 시작했다고 할 수 있습니다.
고종황제 대례복고종황제 연미복
* 고종황제의 대례복(좌), 연미복(우)
1895년은 우리 역사에 피 눈물이 맺힌 명성황후 시해사건이 벌어진 해이기도 한데요. 이 사건으로 친러시아 세력이 물러나고 친일세력이 내각으로 자리잡게 되죠. 이 후 내각은 고종을 설득해 개혁조치를 내리게 했는데요. 이 개혁조치의 3가지 포인트는 음력 폐지, 단발령, 그리고 바로 외복제도에 대해 외국제를 사용해도 무방하게 하는 양복 공인이었답니다.
2. 양복에 대한 반발
1895년 양복착용이 공인된 후, 이에 대한 반발은 무척이나 강했어요. 이 당시의 분위기는 양력을 쓰고 머리를 깎으며 양복을 입는 일에 대해 저항하는 것이 민족적 의분이라고 까지 생각했었죠. 이에 따라 독립신문을 포함한 각종 언론에서 문호개방에 대한 긍정적인 모습을 선전하기 시작했고 관복 또한 새롭게 양복화된 모습으로 변하게 되었답니다.
이 후 1910년 한일합방이 되자 양복은 곧 매국의 상징이 되어버리고 말았는데요. 친일파의 조직인 일진회의 지나치친 의식개혁 운동이 국민들의 증오를 한층 더 불러일으켰기 때문이에요. 그러나 서양의 물결은 어떤 내부적 힘으로는 막을 수가 없는 상황이 이어졌으며 양복은 점차 우리나라에서 뿌리를 내리게 되었답니다. 19세기 말부턴 서울을 비롯한 평양, 부산 등의 대도시에서 양복점이 생겨난 시점이기도 하죠.
3. 양복의 확산
1919년 3월 1일, 삼일독립운동은 문화적 측면에서도 일대의 전기가 되었습니다. 삼일 운동 이후 사회 풍속의 급전으로 구시대와 신시대의 윤리적 충돌이 현저하게 나타났는데요. 1920년대에 들면서 남성 정장의 수요는 급격하게 증가되었고, 양복점의 개설은 생활의 안정을 도모하는 인기 직업이 되었답니다.
셋단추 정장 한국 정장 역사
이 시기에는 남성 정장에 대한 기술을 배우려는 사람들이 부쩍이나 늘어 기술을 가르치는 실습소는 대성황을 누리게 됩니다. 서울을 비롯한 전국의 중요도시에서 양복 실습소는 대박을 누리게 되었죠.
4. 양복의 발전 그리고 암흑기
1930년대 일제 하에서 양복업계는 그 규모가 커졌어요. 위에서 언급했듯 그 기술을 배우려는 사람들도 엄청 늘어났죠. 이 시기에 업계가 성장할 수 있었던 것은 지배자나 피지배자 모두가 근대화에 대한 강한 의지가 있었기 때문인데요. 이런 시대적 물결을 타고 양복은 전국에 널리 퍼져나갔답니다. 이런 현상은 제2차 세계대전이 발발한 1939년까지 지속되었죠.
제2차 세계대전 이후 극심한 경기침체가 이어지며 양복업계에서는 배급제가 실시되며 한인들이 운영하는 영세한 양복점이 수선방으로 전락해 우리 양복 업계는 암흑기를 겪기 시작했답니다.
5. 광복 후 새로운 진화
1945년 8월 15일. 우리 민족사에 영원히 남을 날이에요. 이때 남성 정장 업계도 새로운 진화가 시작되었는데요. 그간 일본인들이 독점하던 양복 업계를 다시 찾은 것이죠. 우리 양복인들은 한자리에 모여 앞으로 양복 업계의 장래를 위해 다양한 의견을 나누고 발전에 대해 머리를 조아리게 되었습니다. 이때 양복인들의 단체인 전선복장연구회가 태동하게 되었답니다.
6. 한국 전쟁 = 새물결의 시작
한국전쟁은 한국 남성 정장의 역사에 있어서도 일대 전기가 되었어요. 군복의 활용은 극히 자연스럽게 받아들여 졌으며 군복 등을 탈색해 입을 수 있었던 사람은 오히려 선택된 계층이기도 했죠. 하지만 사회의 엘리트 계층은 그래도 신사복을 입고 다녔답니다.
이승만 정장역사
또 하나의 패션 현상으로 해외에서 들어오는 구호품 의류의 착장을 들 수 있어요. 서양인이 입던 의류는 너무 커서 그대로 입을 수 없었기 때문에 줄여서 입는 시기가 도래했는데요. 당시 피난 양복인들은 부산에 모여 군복의 수선과 구호품의 사이즈를 줄여가며 생활을 이어갔답니다. 이처럼 한국전쟁은 양복사에서 암흑기라고 할 수 있지만 이 시기야 말로 그 후 펼쳐진 새로운 물결에 밑거름이 되는 시기라고 볼 수 있습니다.
7. 맞춤정장의 전성기
1950년대 중반부터 붐이 일어난 양복의 수요는 1960년에 들면서 폭발적으로 늘어났습니다. 대도시는 물론 읍 단위의 작은 도시에서도 중심가에는 꼭 양복점이 들어섰죠. 이 시기에는 국내 복지회사가 계속 창설되 복지가 흔하게 됨으로서 판촉 활동이 활발하게 되며 양복의 기술 발전이 눈부시는 시기였답니다.
1967년 7월 스페인에서 열린 국제기능올림픽 양복직종에 홍근삼씨가 참가해 금메달을 획득했는데요. 뜻 밖의 결과에 모든 양복인들이 기뻐했고 국위선양에 대한 자신감이 들뜨기도 했습니다. 당시 양복과 제화 부문은 입상의 기대조차 하지 않았고 이에 따라 모든 비용을 자비로 출전해야 했기 때문이에요.
이후 우리나라는 이 분야에서 내리 12연패의 위업을 달성했고 그만큼 국내 양복기술이 국제적으로 인정받았답니다.
8. 근대 정장 이야기
1970년 초에 들어서며 공급이 수요를 초과하는 불황을 맞게 됩니다. 시민들의 개념 또한 '입는다'라는 개념에서 '연출한다'는 개념으로 이전되었고 이에 따라 정장 문화는 새로운 전환점에 들어서게 되죠. 때문에 필연적으로 기술 향상과 고급화의 추세로 나가가기 시작했답니다.
더셔츠스튜디오 한국 공장
1980년대의 개막은 많은 도전과 희망을 맞은 시기에요. 1983년에 들어서면서 일부 대기업에서 대규모의 기성복을 제조하기 시작하며 양복업계에 충격을 주었죠. 이후 점차 경제적으로 안정을 찾아가며 기성복 중심의 트렌드가 지금까지 이어지고 있답니다.
1990년대에 들어서는 남성 패션 브랜드의 수가 증가하며 춘추전국시대를 맞이했고 셔츠와 넥타이 등을 전문적으로 파는 전문 브랜드도 등장하게 됩니다. 그리고, 오늘날. 여러분이 매일 그리고 자주 입는 현재의 정장&셔츠로 이어지게 되었답니다^^
'휴-' 19세기 부터 시작된 우리나라 남성 정장의 역사에 대해 알아봤어요. 기나긴 여정을 한 눈에 정리하니 만만치 않네요^^; 저 역시 매일 정장과 셔츠를 입지만 이런 역사를 알기 전과 후의 느낌은 사뭇 다르답니다. 입을 때 마다 은근히 역사가 생각나면서 '과거엔 이랬겠지?'라는 생각을 하기도 하죠.
우리가 흔히 입은 정장. 멋스러움과 자기만의 개성을 뽐낼 수 있는 요즘. 과거의 역사를 돌아보며 선배, 선조들의 노력에 감사한 마음 가져봅니다^^
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sado lesson
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kado lesson
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'I liked to shoot everything - women, kids... it was kind of sport': Secret Nazi tapes reveal how ordinary German soldiers were responsible for war crimes and not just SS By DAVID BAKER
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2206982/I-liked-shoot--women-kids--kind-sport-Secret-Nazi-tapes-reveal-ordinary-German-soldiers-responsible-war-crimes-just-SS.html
PUBLISHED: 01:08 GMT, 22 September 2012 | UPDATED: 16:09 GMT, 22 September 2012
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Secret recordings made by British intelligence during the Second World War have revealed for the first time the horrific atrocities carried out by everyday German soldiers.
For years the blame for horrific war crimes, rape and genocide were laid at the hands of the SS and Hitler's right hand men but a new book details how widespread the barbarity went.
Transcripts taken from hidden microphones on prisoners of war have been collated for the disturbing book Soldaten: On Fighting, Killing and Dying: The Secret Second World War Tapes of German POWs.
Revelations: The new book reveals how soldiers like this one callously murdered the innocent and then joked about it with fellow soldiers +8
Revelations: The new book reveals how soldiers like this one callously murdered the innocent and then joked about it with fellow soldiers
Tainted: German soldiers crouch over the bodies of two shot down civilians +8
Tainted: German soldiers crouch over the bodies of two shot down civilians
Recordings: The tapes reveal that many of the German soldiers were fully aware of death camps - despite many stating differently +8
Recordings: The tapes reveal that many of the German soldiers were fully aware of death camps - despite many stating differently
Between 1940 and 1945 the British and Americans bugged about 13,000 German and several hundred Italian soldiers of all ranks and services - many of which in the Trent Park detention centre for POWs in north London.
It was hoped the recordings would reveal military secrets of potentially strategic importance, instead they catalogued open and uncensored conversations about war experiences - often as to boast.
Evil: It appears the atrocities carried out by the SS and Adolf Hitler's henchmen were a lot more widespread and done by ordinary soldiers +8
Evil: It appears the atrocities carried out by the SS and Adolf Hitler's henchmen were a lot more widespread and done by ordinary soldiers
They detail not only the extreme level of violence but a disturbing sense of enjoyment from the soldiers.
One example of many recounts: 'There was an event in the market square, crowds of people, speeches given. We really sprayed them! That was fun!'
Another reveals the following conversation: 'We once did a strafing near Eastbourne. We flew up and saw a big castle; there seemed to be a ball or something – anyhow a lot of ladies in evening dress and a band.
'The first time we flew past; then we attacked and kept at it. Boy oh boy, was that fun.'
Another reveals: 'I loved dropping bombs. It makes you feel all tingly, a great feeling. It’s as good as shooting someone down.'
The book, which has been compiled by German historians Soenke Neitzel and Harald Welzer has been translated in to English for the first time, dispelling myths that German soldiers were not responsible for such war crimes.
It offers a bleak inside view of World War II and in doing so, they destroy once and for the myth of a 'clean' Wehrmacht - the German name for the armed forced.
The soldiers talk about their views of the enemy and their own leaders, discuss the details of combat missions and trade astonishingly detailed accounts of the atrocities they both witnessed and committed.
War crimes: The likes of Josef Mengele (left) known as 'The Angel of Death', Rudolf Hess and Josef Kramer were well known war criminals but hidden microphones reveal how Wehrmacht soldiers were embroiled in the atrocities +8
War crimes: The likes of Josef Mengele (left) known as 'The Angel of Death', Rudolf Hess and Josef Kramer were well known war criminals but hidden microphones reveal how Wehrmacht soldiers were embroiled in the atrocities
One passage reads: Zotlöterer: 'I shot a Frenchman from behind. He was riding a bicycle.'
Weber: 'At close range?'
Zotlöterer: 'Yes.'
Heuser: 'Did he want to take you prisoner?'
Zotlöterer: 'Nonsense. I wanted the bicycle.'
The material contains disturbing accounts of sexual abuse, rape and torture as well.
Disturbing: Women and children were not spared by trigger happy soldiers, some of whom described killing as 'fun' +8
Disturbing: Women and children were not spared by trigger happy soldiers, some of whom described killing as 'fun'
Executions: German soldiers line up and execute a group of Jewish men by the banks of the Danube in Hungary +8
Executions: German soldiers line up and execute a group of Jewish men by the banks of the Danube in Hungary
In one section a passage attributed to Reimbold reads: 'In the first officers' prison camp where I was being kept here, there was a really stupid guy from Frankfurt , a young lieutenant, a young upstart.
'And he said: 'Oh, we caught this female spy who had been running around in the neighborhood.
More...
Pakistan's 'Day of Love for the Prophet' turns into a show of hatred for U.S. over anti-Islam film - with 19 dead in riots and Stars and Stripes burned and ridiculed
Flanked by armed policemen, 'cop killer' Cregan charged with four murders... as boy, 15, arrested at school for 'assisting killer'
'First we hit her in the t**s with a stick and then we beat her rear end with a bare bayonet.
Then we f***** her, and then we threw her outside and shot at her. When she was lying there on her back, we threw grenades at her.
'Every time one of them landed near her body, she screamed.'
'And just think, there were eight German officers sitting at that table with me, and they all broke out laughing.'
British intelligence: Microphones hidden on POWs at Trent Park in north London helped reveal how many soldiers boasted about their atrocities +8
British intelligence: Microphones hidden on POWs at Trent Park in north London helped reveal how many soldiers boasted about their atrocities
Read more: http://www.dailymail.co.uk/news/article-2206982/I-liked-shoot--women-kids--kind-sport-Secret-Nazi-tapes-reveal-ordinary-German-soldiers-responsible-war-crimes-just-SS.html#ixzz34kavMfPF
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Secret recordings made by British intelligence during the Second World War have revealed for the first time the horrific atrocities carried out by everyday German soldiers.
For years the blame for horrific war crimes, rape and genocide were laid at the hands of the SS and Hitler's right hand men but a new book details how widespread the barbarity went.
Transcripts taken from hidden microphones on prisoners of war have been collated for the disturbing book Soldaten: On Fighting, Killing and Dying: The Secret Second World War Tapes of German POWs.
Revelations: The new book reveals how soldiers like this one callously murdered the innocent and then joked about it with fellow soldiers +8
Revelations: The new book reveals how soldiers like this one callously murdered the innocent and then joked about it with fellow soldiers
Tainted: German soldiers crouch over the bodies of two shot down civilians +8
Tainted: German soldiers crouch over the bodies of two shot down civilians
Recordings: The tapes reveal that many of the German soldiers were fully aware of death camps - despite many stating differently +8
Recordings: The tapes reveal that many of the German soldiers were fully aware of death camps - despite many stating differently
Between 1940 and 1945 the British and Americans bugged about 13,000 German and several hundred Italian soldiers of all ranks and services - many of which in the Trent Park detention centre for POWs in north London.
It was hoped the recordings would reveal military secrets of potentially strategic importance, instead they catalogued open and uncensored conversations about war experiences - often as to boast.
Evil: It appears the atrocities carried out by the SS and Adolf Hitler's henchmen were a lot more widespread and done by ordinary soldiers +8
Evil: It appears the atrocities carried out by the SS and Adolf Hitler's henchmen were a lot more widespread and done by ordinary soldiers
They detail not only the extreme level of violence but a disturbing sense of enjoyment from the soldiers.
One example of many recounts: 'There was an event in the market square, crowds of people, speeches given. We really sprayed them! That was fun!'
Another reveals the following conversation: 'We once did a strafing near Eastbourne. We flew up and saw a big castle; there seemed to be a ball or something – anyhow a lot of ladies in evening dress and a band.
'The first time we flew past; then we attacked and kept at it. Boy oh boy, was that fun.'
Another reveals: 'I loved dropping bombs. It makes you feel all tingly, a great feeling. It’s as good as shooting someone down.'
The book, which has been compiled by German historians Soenke Neitzel and Harald Welzer has been translated in to English for the first time, dispelling myths that German soldiers were not responsible for such war crimes.
It offers a bleak inside view of World War II and in doing so, they destroy once and for the myth of a 'clean' Wehrmacht - the German name for the armed forced.
The soldiers talk about their views of the enemy and their own leaders, discuss the details of combat missions and trade astonishingly detailed accounts of the atrocities they both witnessed and committed.
War crimes: The likes of Josef Mengele (left) known as 'The Angel of Death', Rudolf Hess and Josef Kramer were well known war criminals but hidden microphones reveal how Wehrmacht soldiers were embroiled in the atrocities +8
War crimes: The likes of Josef Mengele (left) known as 'The Angel of Death', Rudolf Hess and Josef Kramer were well known war criminals but hidden microphones reveal how Wehrmacht soldiers were embroiled in the atrocities
One passage reads: Zotlöterer: 'I shot a Frenchman from behind. He was riding a bicycle.'
Weber: 'At close range?'
Zotlöterer: 'Yes.'
Heuser: 'Did he want to take you prisoner?'
Zotlöterer: 'Nonsense. I wanted the bicycle.'
The material contains disturbing accounts of sexual abuse, rape and torture as well.
Disturbing: Women and children were not spared by trigger happy soldiers, some of whom described killing as 'fun' +8
Disturbing: Women and children were not spared by trigger happy soldiers, some of whom described killing as 'fun'
Executions: German soldiers line up and execute a group of Jewish men by the banks of the Danube in Hungary +8
Executions: German soldiers line up and execute a group of Jewish men by the banks of the Danube in Hungary
In one section a passage attributed to Reimbold reads: 'In the first officers' prison camp where I was being kept here, there was a really stupid guy from Frankfurt , a young lieutenant, a young upstart.
'And he said: 'Oh, we caught this female spy who had been running around in the neighborhood.
More...
Pakistan's 'Day of Love for the Prophet' turns into a show of hatred for U.S. over anti-Islam film - with 19 dead in riots and Stars and Stripes burned and ridiculed
Flanked by armed policemen, 'cop killer' Cregan charged with four murders... as boy, 15, arrested at school for 'assisting killer'
'First we hit her in the t**s with a stick and then we beat her rear end with a bare bayonet.
Then we f***** her, and then we threw her outside and shot at her. When she was lying there on her back, we threw grenades at her.
'Every time one of them landed near her body, she screamed.'
'And just think, there were eight German officers sitting at that table with me, and they all broke out laughing.'
British intelligence: Microphones hidden on POWs at Trent Park in north London helped reveal how many soldiers boasted about their atrocities +8
British intelligence: Microphones hidden on POWs at Trent Park in north London helped reveal how many soldiers boasted about their atrocities
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kado lesson one-way style
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Amenities in the japanese armed forces
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the Korean traditional caning
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/goumon.html
매질 (체벌)
위키백과, 우리 모두의 백과사전.
매질은 나무 막대기 등으로 된 매로 때리는 것을 말한다.
태형매로 때리는 형벌을 태형(笞刑)
拷問の厳しさは李朝朝鮮の遺風
天安の独立記念館へ行くと、日本時代の拷問風景の蝋人形がある。そのすさまじさは、日本時代がいかに暗黒時代であったか、見学に来た多くの人にアッピールしている。
又ロンドンデーリーミラーの記者、マッケンジーはその著書『朝鮮の悲劇』に、義兵運動の激しかった1906年、二つの監獄を視察し、そのすさまじさを伝え、伊藤博文統監がこのような実態に何らの改善をしないと非難しているている。その一部を左記に示す。
地上に縛り付けられている3人の男がそこにいた。彼らの首と足は台柱にくくりつけられ、手は縛り合わされていた。部屋には明かりもなく通風窓もなかった。ただ僅かに壁に開けられた小さな穴があるだけであった。彼らの背には笞打ちで裂かれた恐ろしい傷跡があり、その手はきつく縛り付けた縄の為、所々骨が見えるほどに肉が裂けていた。そしてそれらの傷跡は、全く膿み放題になっていた。手足の上部は腫れ上がり、笞跡と水ぶくれができていた。1人の男の目はふさがっていて視力を失っており、まぶたからはたくさんの膿がたれ出ていた。多分両眼を笞でひっぱたかれたのであろう。男たちは終日動くこともなしに、こうして監禁されたままなのである。私は彼らを日の当たる場所に連れ出した。それは難しい作業であった。彼らのうちの1人は四肢が萎えてしまっていて、既に殆ど身体を動かすことが出来なくなっていた。彼らはみんな飢え衰えて、なにかを嘆願したり抗議したりする気力も失ってしまっていた。そこは私のこれまでに見た限りでの地獄への一歩手前であった。
しかし、これは伊藤が赴任してからわずか一年も経たない頃であり、日本人顧問団もまだ極めて少ない時期であった。
朝鮮の拷問の激しさについてシャルル・ダレは、1866年ソウルで処刑されたダブリュイ主教の手紙を中心に次のように報告している。
「許されている拷問が、未だ数多く残っている。次に主要なものを挙げてみよう。(詳細省略)
1.棍杖(長さ1.6-2メートル、幅20センチ、太さ4.5センチ位の棍杖で殴る)
2.平棒、笞、棒杖
3.骨の脱臼と屈折(3種類ある。その内の1例は、両膝と両足の親指を縛り、その間に2本の棒を入れ、反対方向に引っ張る)
4.吊り拷問
5.鋸拷問或いは足の鋸引き
6.3稜杖(木製の斧若しくは鉞で肉片を切開する拷問」
つまり天安の独立記念館で展示されている拷問の風景は、李朝朝鮮時代の拷問風景なのである。
1906年統監府が設置されたとき、韓国では既に「裁判所構成法」が制定されており、外形上は整っていたが、実質は行政官が殆ど司法官を兼務しており、司法と行政は一体であった。伊藤統監は韓国法部、主要裁判所に日本人参与、法務補佐官を各一名雇用させ、司法事務の指導に当たらせた。第三次日韓協約、韓国併合と日本の関与が強まると共に司法は独立し、裁判制度が整備された。
この法務補佐官として韓国に赴任した長浜三郎は、拷問の残酷さを見て「未開幼稚の時代には何国も拷問の蛮法はあったろう。我が国も昔時は口供完結を持って罪を論ずという時代もあったが、彼のボアソナード博士が「拷問とボアソナードは両立せず」と絶叫し、遂に廃止せられてから既に30余年にもなる。それが今一衣帯水のこの国に来りこの残酷を目睹するに至っては豈に驚かざるを得むのだ」と述べている。赴任して5ヶ月後「法務補佐官会議」が開催され、その結果拷問廃止を骨子とする法律が制定され、韓国で初めて拷問がなくなる事になったのである。*1
監獄の改善もこの時期に始まった。それまで殆どなかった刑務作業の拡充に努め、出所後の社会復帰の機会の増加を図った。又僧侶、牧師をして、教誨の任に当たらせると共に、無教育であった受刑者に読み書き、算盤を教えた。入所当時無教育であった受刑者が、獄中から父母に書簡を送り、不幸を謝り、父母を感激させた例も少なくなかった。*2
朝鮮の刑罰規定で異色のものは笞刑である。朝鮮では五刑の一つとして広く適用されていたが、1912年「朝鮮笞刑令」として正式に採用された。この対象は朝鮮人の16歳から60歳までの男子に限られ、刑1日又は罰金1円が笞1に計算された。1日笞30までとし、笞で尻を打つものであった。執行方法が容易なこと、行刑費が節約となること、犯罪の予防上効果のあること等から残されたが、斉藤実総督時、キリスト教宣教師(米人)の強い要望により廃止された。*3
次に李朝朝鮮の取り調べ、裁判のでたらめな例を2例挙げる。
シャルル・ダレ 「ある日1人の若い常民が、両班の子弟と喧嘩している内に、誤って斧で脇腹を一撃して殺してしまった。殺人犯である常民は、即座に捕らえられ守令の前に連行された。証人の中には被害者の父親もいた。一言二言三言訊問した後、守令は斧を持ってこさせてその父親に手渡し、縛られたまま地面に倒れている殺害者を指さしながら、「こやつが、どのようにお前の息子を打ち殺したか、見せてみよ」と言った。守令はその父親に犯人をその場で殺害させ、煩わしいこの事件から早く逃れてしまいたかったのだ。」
マッケンジー 国王のロシア大使館逃避後の出来事として。「第2の詔勅が天下に公布され、兵士たちに自分たちの国王を守り、謀反の首謀者たちの首をはねて国王の所にそれを持参するよう呼びかけた。この詔勅は集まった群衆の怒りを最高潮にかきたてた。大群衆が前閣僚たちを殺害しようと捜し求めた。2人の大臣(前内閣総理大臣金弘集と前農商工部大臣鄭秉夏の2人)が街路に引きずり出され、残忍きわまる方法で殺害された。その内1人は首の後ろから耳の前にまでわたるひどい深傷を負っていたが、群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声を張り上げた。群衆はその死体に向かって石を投げつけ、或いは踏みつけ、又或ものはその四肢をずたずたに切り裂いた。1人の男は自分の小刀を抜きはなって、死体の一つの内股の肉を切り取り、その肉片を自分の口に入れながら、群衆に向かって「さあ!奴らを食おうではないか」と叫んだ。」
日本はこのような前近代的な制度を廃止し、近代的な裁判制度を取り入れた。その典型的な例は、伊藤博文の暗殺事件に対する対応である。伊藤博文は韓国統監の前に、日本の首相を何回も歴任した、近代日本創設の最大の功労者である。この伊藤がハルピンで暗殺されたのである。当然日本の民衆は激高した。前述の金弘集首相の例から見て、朝鮮では即刻死刑となったであろう。しかし日本は彼を「義士」として扱い、二人の弁護士を付け、安重根の法廷闘争を援助したのである。さらに監獄で出される食事は上等の白米で、果物・茶までつき、さっぱりした衣類の支給、入浴もあった。*4
朝鮮人判事は併合当初、民事では原告・被告共に朝鮮人の場合、刑事では被告が朝鮮人の場合のみ担当できたが、1920年の改正により、日本人判事と法令上も、実務面からも一切の差別はなくなった。*5
脚注
*1 『法政 二〇〇〇年六月号』「法政大学の歴史三一 韓国統監府に於ける法政大学出身の法務補 佐官」巻末
*2 『日本人の海外活動に関する歴史的調査朝鮮篇第二分冊』一六九-一七一頁
*3 日本人の海外活動に関する歴史的調査朝鮮篇第二分冊』一五〇-一五一頁
『斉藤実伝』
*4 日韓二〇〇〇年の真実
*5 日本人の海外活動に関する歴史的調査朝鮮篇第二分冊』一三二-一四二頁
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi049.html
日清戦争前夜の日本と朝鮮(13)
(参照公文書は1部を除いてアジ歴の史料から)
(朝鮮風俗)笞刑 WHIPPING PRISONER 1903年 朝鮮伝統の刑罰であり男女の区別なく行われた。
笞刑は世界で広く見られた刑罰の一つであるが、日本では明治5年(1872)に笞と杖の身体刑は「懲役刑」に取って代わった。しかし朝鮮では五刑の一つとして永く用いられ、日本による併合時代に至っても対象を朝鮮人男子に限り年齢制限を設けて暫らく継続し、大正9年(1920)3月に廃止された。(朝鮮笞刑令中廃止制令案)
以下はその廃止理由である。
『笞刑は、古来朝鮮に於て広く施用せられ民度に恰適する刑罰なるを以て、明治四十五年四月、内、鮮、外人に対する刑事法規を整理統一するに該り、暫く旧制を襲踏し軽微なる犯罪の制裁として之に存知したり。然れども、本刑の如く肉体に直接の苦痛を与うるものは、現代文明思想に基く刑罰の性質と背馳する点あるのみならず、近時朝鮮人は著しく向上自覚し、其の民度は復昔日の観にあらざるが故に、笞刑を廃止し基本刑たる懲役又は罰金等を以て之に蒞(のぞ)むも、刑政上毫も支障なしと認めたるに由る。』
身体刑を併合後も継続したのは朝鮮伝統文化を尊重したと言うわけでもなかろうが、犯罪者に対する慣習としての朝鮮人の制裁感情を考慮したということもあろう。そもそも刑罰と云うものは、人々が犯罪に対する制裁とその抑止を求めたものであるが、つまりは人間社会共同体で守られるべき「掟」を担保するものであろう。よって改変するには人々の意識の変革が伴わねばならないはずである。日本による統治が始まって10年、啓蒙によって朝鮮人の民度は向上し、それに伴い廃止する時期が来たということであろう。
無論、朝鮮人に対する不平等云々といった性質の問題ではない。
日本人取締規則の改正
明治18年8月、かつて明治16年に布告した「清国及朝鮮国在留日本人取締規則」の内、第一条を以下のように改正することとなった。
(明治十六年第九号布告清国及朝鮮国在留日本人取締規則第一条改正ノ件)
旧 「第一条 清国及び朝鮮国駐箚の領事は、在留の日本人、該地方の安寧を妨害せんとする者又は其の行為に因り該地方の安寧を妨害するに至るべき者と認定する時は一年以上三年以下在留することを禁止するべし。但し其の情状に由りては其の期限相当の保証金を出さしめ在留することを得。」
新 「第一条 清国及び朝鮮国駐箚の領事は、在留の日本人、該地方の安寧を妨害せんとし、若くは風俗を壊乱せんとする者又は其の行為に因り該地方の安寧を妨害し若くは風俗を壊乱するに至るべき者と認定する時は一年以上三年以下在留することを禁止するべし。但し其の情状に由りては其の期限相当の保証金を出さしめ在留することを得。」
下線部分が追加されたものであるが、風俗壊乱とは、要するに売買春のことである。
その上申理由は、
「上申の旨趣は清国及朝鮮国在留人民、密売淫取締の儀、巡査寡少にして充分ならず。殊に清国各港は各国人雑居し、我警察権の行われざることあるが為めに、明治十六年第九号布告清国及朝鮮国在留日本人取締規則を以て密売淫を論ぜんと欲するに在り。右は不得已儀に付御採用相成可然と認む。」
であった。
性を罪悪視するものと言えば、キリスト、イスラム、仏教、儒教による観念があろう。
その点日本人は本来、性に関しては大らかなものであった。古事記の伊邪那岐・伊邪那美の国生み神話からしても、その性描写はリアルなものである。
それは人間の営みの事実を素直に見詰めただけに過ぎないものであろうし、おそらくは人類文化初期からの宗教観念とも関連するものでもあろう。
しかし西洋では、例えば売春婦は最も古い職業の一つであるとされたが、陰湿なイメージが伴うどこまでも日陰の存在でしかなかった。
それに比して日本では、例えば大名から庶民までが通う遊郭の世界を作り出すなど、エンターテインメントとして、日本人の遊びの文化、美の文化の一つにまで昇華させた。
しかしそういう文化は他国では受け入れられないものであったのだろう。
撮影年代不明。朝鮮の笞刑は、女にも容赦なく行われた。写真とは関係ないが、明治7年4月の森山理事官の記述には「殊に其の妻懐胎なりしに猶笞鞭を加えられ、肉破れ血迸るに至ると」とある。(「朝鮮始末(一)」p125)
朝鮮では、朝鮮人が居留地の日本人と性的関係を持った場合は、笞刑どころか、斬首さらし首の刑であった。(「日朝の交際歴史の補填資料」の「康熙癸亥制札」。なお、いつ廃されたかは不明。)
一方、日本の外国人居留地には遊郭が設けられ、外国人が自由に出入りしていた。(後の長崎事件は、清兵が遊郭で遊んだ時に起こしたトラブルが発端である。)
あるいはまた、京城・仁川に居留する西洋人や清国人に雇われている日本人女性の内、ドイツ人と清国人の妾となった者もおり(京城小事変並ニ栗野書記官同地へ出張/8 総人員調査簿 2)、中には母親も同居したりしている。
見えてくるのは逞しく生活する日本人の姿である。
朝鮮政府、刺客池運永を派遣
明治19年(1886)3月、兵庫県令から、「朝鮮人池運永なる者が神戸港に来着し、かつて朝鮮政府通商事務衙門主事として来日したこともあったが、今回は何の目的で来たのかを捜査中である。」と井上馨外務大臣宛に上申があった。
その後、再び兵庫県令は地運永に関して、「同人は明治15年事変に乱を避けて神戸港に暫らく滞在し、また17年6月に朝鮮人金東境を伴って来て神戸港に於て写真の業を修め、18年4月に一旦帰国した者で、今回は写真器械購入の為に来たようで、金塊を200余円と両替した。今回は全くの私人として来日した。」と報告した。
更に4月、池運永は張殷奎と同伴して旅行視察に行き、大阪、奈良、大仏、春日神社と見物し、京都に来て張殷奎は神戸に帰り、池運永は東京に向かった。両名は大阪にあっては昼間に外出するを好まず、頗る人の目を憚るようで差し向かいで朝鮮語で会話し日本地図2、3帖も所持し、又日本地史略なども読み、またより詳細な地図を買い求めんとするようであった。目的はただ遊歴に来たということであったが、所持金等は十分な様子に見受けられ、或いは朝鮮政府から内密で日本事情視察のために渡航したのではないかとも思われた。
(以上「韓人ニ関スル警視庁及兵庫県庁ヨリノ報告/2 明治18年12月19日から明治19年9月18日」より)
ところが5月になって朝鮮人地運永が、金玉均暗殺の目的で来日していることが発覚した。
(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p3より現代語に。)
警視庁からの報告別紙
芝区南佐久間町参丁目参番地丸木駒方に止宿の朝鮮人地運永は、金玉均暗殺の目的で渡航したとの旨、朝鮮在留のある日本人[井上角五郎であろうと云う説あり]の談により、金玉均へ密報したということは過日に報告いたしましたが、右の地運永なる者は両三日前より、夜中金玉均の宿所近傍に来て付狙う様子で、金の従者、山田、中原等(いずれも朝鮮人の日本偽名)に於てこれを認めて一層注意していたところ、今朝もまた近傍を徘徊して挙動不審であることから、山田等はこれを取押えて其宿所[中原の止宿等を云う]へ連れ行き、所持品等を取り調べると短刀を懐中していたようで、山田等がこれを取り揚げて詰問すると、地運永は終にその事実を告げ、目下、神戸在留の張殷奎と謀って朝鮮政府の刺客となり、金玉均を暗殺するために渡来したとの意味の事を吐露したことを以て、中原等はこれを金玉均に通知した。しかし金に於てもその始末を公然日本政府に訴え出ることも致し難いとて、地運永を小林ヨシ方に留置き、其処分に当惑しているとのことを聞込いたしましたので、真偽はわかりませんが、取り敢えずこの事を報告いたします。
明治十九年五月二十九日夜
6月1日になって金玉均は以下のように、井上馨外務大臣宛に書簡を送り、地運永が朝鮮政府の刺客であること、その委任状を所持していた事などを述べ、それら書類や刀剣等の証拠を以て日本政府に訴え出るべきかを問い、また日本政府の保護を願い出るに至った。
(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p6より抜粋して現代語に。)
(略)
さて、拙者の一身上の事に付き、敢てここに賢慮煩いのことを奉ります。
そのわけは、この頃から朝鮮政府より池運永なる者を以て当国に渡来させ、当時芝区元佐久間町旅店に客となっている同人の事に付ては、屡々怪しい挙動があるようで、拙者からも百事心を配って同志者をして悉く探偵を尽くさせましたところ、果して本国よりの命を奉じて刺客全権として来た者に相違なく、就ては、右刺殺の委任状その他剣類并に書類等十分の証拠を得、[証拠中に日本国に対し関係のこともあり。]その証拠類は総て皆ほとんど手許に来て正に所持致しています。
このような状況であることを以て、近頃、拙者の一身の危いことは実に愁眉の急であって、薄氷を踏むに異ならないありさまです。就てはその証拠を以て日本政府へ訴えます方がよいか、もしその際に当って拙生の一身に対して、聊か日本政府から御保護くだされましょうか。
又この起訴は却て不都合でしょうか。もし起訴も成り難く、又いささかの保護もくだされない以上は、実に拙者の一身生命に関する事なのでその他の方法に依て便を求めるより外なく、・・・。
(以下略)
よって金玉均がこのことで井上外務大臣に内々でも直接面会して詳細を述べたいと要望した手紙であった。
朝鮮人と日本官憲
後に入手した委任状とするものには、
「特に汝に命じて海を渡り賊を捕えしむ。臨時に計画するは一に其便宜に任す。国の事務を処するに至ても亦全権と為す。軽挙事を行う勿れ。御寶(国王印)」(「韓人池運永関係ノ件/3 明治19年6月23日から明治20年4月12日」p31)
とあった。
井上は先の警視庁からの報告もあり、直ちに京城高平公使に命じてその実否を朝鮮政府に糾させ、池運永召喚の事を議政府に依頼させた。
朝鮮政府は委任状は贋物であると言い張ったが、勧告を受け容れて召喚の事を日本政府に依頼し、帰国命令書を託した。
しかし池運永は帰国命令を受けて横浜港まで来たが出立しようとしない。よってその理由を問うと、旅費がないとのことであった。(おいおい)
後に提出した本人の手記には、
「国に難事多く逆賊が未だ滅していないことを憂え、大いに憂国の心を募らせ、一刀を作らせて一人修練に励み、明治18年11月3日に閔丙奭の家を訪問してその志を打ち明けた。閔氏はこれに感じて政府に上申し、それより王宮に呼ばれて統理軍国事務衙門主事に任じられ、『斬賊大使』の全権を委任された。また国王自らその全権委任状に押印されて与えられ資金5万円を給された。その後、閔応植らの招きにより袁世凱にも面会し、袁世凱も大いに期待して即刻日本駐在清国公使にその旨を報せた。それより美濃丸に乗船して日本に向かい、長崎、神戸、奈良の大仏、京都滞在一週間、大津、伊勢と巡り、天照皇大神宮に参拝して神楽祈祷を頼み、上吉の神籤を得た。尾張、三河、遠江、駿河、相模を経て箱根の温泉に浴し、その後東京に到った。(「韓人池運永関係ノ件/3 明治19年6月23日から明治20年4月12日」p34)」
とある。また、東京では吉原に行き遊興に耽ったとのこと。(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p4)
「全権の斬賊大使」という名称も笑うところか。また五万円はあまりにも高額過ぎる。五百円としても十分過ぎる額であるし、おそらくは法螺であろう。
しかし、奈良の大仏、春日、京都見物、箱根温泉、東京吉原での遊びと、かなりの豪遊だったらしく、遂に旅費どころか宿屋の宿泊代も払えない状態となっていた。為に神奈川県がそれを立て替え、後に朝鮮政府に請求している。
日本の美しさに魅せられ観光に耽った「全権の斬賊大使」と。刺客よりも写真師の要素が強かったのだろうか。天照皇大神宮に参拝して神楽祈祷を頼み、上吉の神籤を得た、と記すところが一段と微笑ましい。
これに関連して、このような時に日本の官憲が、朝鮮人に対してどう接していたかを窺うことが出来る文章があるので掲載する。
(「韓人池運永関係ノ件/1 〔明治〕19年6月7日から明治19年7月16日」p14より抜粋して要約現代語に。)
号外
朝鮮人池運永処分の義に付上申
(略)
その後数日を経ても本人が出発した模様がなく、それで内密に取り調べましたところ、同人は朝鮮国人金玉均の従者である同国人鄭蘭教外二名から本人の旅館であるクラブホテルの一室に擁閉され、始終監視されていることを探知いたしました。それで本人は出立する意があっても出来ないようです。
それで延引することになるかもしれないと考えまして、その辺を尋問のために本県官吏を同人の旅館へ派遣しましたところ、本人は前述のように一室に擁閉され、前記三名の者がその左右にあって、前もって金玉均から申し付けられているようで、我が官吏が同人へ面会するのを拒み、再三に渡って説諭を加えましても遂にそのことが叶いませんでした。
よって本月十九日、更に同人を公然召喚する手続きを尽し、もし右の三名が抵抗する場合は、断然これを制止する積りで警察官を付けて官吏を同館へ差し向け、更に面会を求めましたところ、ここに至って鄭蘭教等に於ても別に拒むことなく面会が出来ましたので、更に(池運永に)当庁への出頭を命じ、小官が自ら本人の出発が遅れている理由を尋問しましたところ、別紙第一号の通り、旅費が欠乏して出発出来ないこと、並びに当面鄭蘭教等と一緒に居るのを厭い、故に他の宿に移りたいとの事で、もし鄭蘭教等が同居を求めるならば、我政府の保護を以てこれを差し止められたいと乞うので、よってその求めに応じて本人を当港の新柗樓なる旅亭に移して止宿せさました。
然るに翌二十日、本人が小官宅に来て別紙第二号の通り申し出ました。(略)
(池運永はここで朝鮮政府から金玉均殺害を委任された事などを自供した。以って自首したと見なされている。)
よって、右の第四号書面(自供書)中に記載あります通り、同人は朝鮮国王から逆賊金玉均輩を殺戮する委任状を受けて渡来したと明言致しました。
それで熟考しましたのに、右金玉均等は目下現に本港二十番グランドホテルに止宿しており、右様の委任状を受けて渡来しました上は、何時同人に対して殺傷を試みるかも計り難く、その時は忽ち本港の平和安寧妨害となる容易ならないことと思量致しました。
それでその翌二十一日、再び我が官吏を本人(池運永)の宿所へ派遣して以下のように申し述べさせました。
去る十九日に同人を召喚するために本県の官吏に帯剣の警部を同行させたのは、本人を捕捉するためではなくて、朝鮮政府から速やかに帰国すべき電信を伝達してから数日を経過しても出発の報がないので、その尋問のために再三官吏を派遣して面晤を求めたが、鄭蘭教等が本人に面会するを拒み、よって往復すること数回に及んだが終に要領を得ないこととなった。つまるところ、これは全く鄭蘭教等が同人の自由を奪って妨害したことにより、これらの者を制止するために同行させたまでである。ついては、朝鮮政府から委任状を所持しているのを示されたいと。(この時、本人は委任状を示さなかった。後に入手。)
(略)
よって本邦滞在の金玉均等に対して何時殺傷を行うかも計り難く、本港の治安を害することも少なくないので、命令状を発して我が警察官を以って外出を禁止し監視いたしております。 (略)
明治十九年六月廿二日 神奈川県令 沖守固
現代と同じである。
いきなり連行することもせず、一旦引き揚げて手続きを踏んで令状を以て訪れ、然るべく処置をし、要望に応じて別の宿を斡旋し、また面会を拒むのを往復数回にわたって説得するなど、現場の巡査たちの苦労が感じられるほどである。
ここには「差別」とか「横暴」とか微塵もないことが窺われる。
さて、かくも手の掛かる無一文「大使」はその後6月22日に内務大臣山縣有朋から正式に送還命令が神奈川県令に伝えられ、それにより23日に出航の横浜丸で巡査数名が付いて朝鮮に護送された。
井上外務大臣は京城の高平公使へ、朝鮮政府に池運永を引き渡す事についての訓令として次のように申し渡した。
(「韓人池運永関係ノ件/3 明治19年6月23日から明治20年4月12日」p43より抜粋。)
(略)
一 朝鮮政府が果して今回のような事を池運永に訓令したことについて、池運永が必ず同政府の訓令書状等を所持しているはずであると、同人を詰問して委任状等を探求し、これを根拠として厳格に朝鮮政府に照会に及ぶことを当然とするも、この事をせずにただ地運永を送還するのみとする処分は実に寛大と云うべきである。
まして池運永が陳述したことが果して事実ならば、朝鮮政府は万国公法に違反し、我国を蔑視していること甚だしいだけでなく、又大いに両国の友誼厚情に背反するところがあるについてはなお更の事である。
然るに6月14日付貴官の電信中に、朝鮮国王は池運永へ委任状等を交付したことを承知しない旨記載があるによって、日本政府はこれに信を置いて問題を生じないように注意し、正当に池運永を詰問追及する手段にも出ないようにして朝鮮政府の責任を軽くするように勉めた。
これは即ち寛大中の寛なるものであることは明らかである。故に貴官に於ては、右の趣意を重々朝鮮政府に説明あるべし。
(略)
金玉均に国外退去を命じる
日本政府は、このようにして朝鮮政府に対しては「寛大中の寛」で処理し、日朝間に新たな問題が噴出する事を避けた。
しかし問題は、金玉均が日本に滞在している限り、今後もこのような事件が繰り返されるだろうことであり、また日本人の中にも金玉均に同情し、あるいはそれに乗じて企てを計らんとする者もいることであった。
まして、金玉均がこの事によって大人しく隠遁するでもなく、6月1日の書簡のように却って日本政府に公然訴え出る態度を示したことであった。
井上馨はこれを以って金玉均に対して厳しく処する事を決心したようである。
即ち金玉均が書簡を送った翌日の6月2日、在清国特命全権公使塩田三郎と京城の高平公使に対して、遂に金玉均を国外退去とすることに決定したことを通知し、また9日には内務大臣山縣有朋に、その旨警視総監を通して金玉均に申し渡した事を伝えている。
(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p20より現代語に。)
機密 外務大臣より
在清特 命全権公使塩田三郎殿
在朝鮮 臨時代理公使高平小五郎殿 但し各通
金玉均処分のことは先般来から計画したこともある。しかし先ず今日までは、そのままにしていたことは貴官も御承知の通りであるが、別紙で御承当のように、事情が切迫致している事に付いては、最早何分かの処置を決行しないわけにいかない時期となった。よって考えるのに、彼が我国に住居していては始終日清韓間の交誼を阻碍する素因となるだけでなく、この度のように本邦治安を妨害するような結果となるようなことにもなる。
しかしながら、李鴻章並びにその外の請求のように、金玉均を捕縛して清政府又は朝鮮政府に引渡すが如きは元より行うべき筋ではなく、且つ彼を誘導して清国に渡航させるようなこともまた行えないことである。
よってこの際、断然我が国境から退去することを申し渡すことに決定し、このことを清国公使へも篤と申し談じたところ、同公使に於てもよく我が論旨を了解して異論が無いので、本日、警視総監に於て金玉均を召喚して右の主意を申渡し、何れへ向けてなりとも日を期して我国境を退去するように申し渡した。尤も、右を本日申し渡した事に付いて、退去する方向等は未だ分らず、しかし兎に角遠からぬ内に我国を退去させるので、このことを御通知するものである。
明治十九年六月二日
なお、ここでの金玉均への申し渡しは口頭で伝えたものである。
その後井上は、9日には内務大臣山縣有朋に、池運永と金玉均の処分のことを併せて、その後入手した刺客の委任状なるものや金玉均の書簡などの資料を添えて通知し、2日の日に警視総監から金玉均に国外退去するように口頭で申し渡した事を伝え、正式に命令状を発するように依頼している。(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p11。)
その事を受けて山縣有朋は11日に神奈川県令に対して金玉均に国外退去を正式に申し渡すように通達した。
「命令書送達の翌日より起算して十五日以内に日本皇帝陛下の領地を去り、而して後、命令書の取り消しのあるまでは、再び我領地内に入らざる事」と命じ、同時に警視総監並びに各府知事県令に金玉均追放の事を通知した。
なお、もし金玉均が去らない時には、抑留して速やかに必要なる処置をして追放するように言い渡し、またその際、次の執行者の心得なるものを訓令している。
(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p17より現代語に。)
朝鮮国人金玉均退去のことで、別紙訓令に及ぶについては、精密に注意取締をし、処分上最も鄭重にすることを旨とすべし。よって心得の為に左にその取り扱い手続きを示す。
一 本命令書は、制服を着した警察官が金玉均の住所に臨み、その正本を示して謄本を渡し、その領収書を徴収するべし。
一 本命令の期限内に立ち去らないことを以って、これを抑留したときは、直ちに電信を以って外務大臣にその処分方を伺うべし。
一 抑留の性質は通常の犯罪人の拘留に異なり、相当の待遇をなすべし。
一 外国人が家宅に居るときには、府知事県令から本命令書を添え、その国の領事に照会し、領事から引渡しを受けた上で、第二項に従って処分すべきものとする。
国内世論を考慮してでもあろうか、国事犯金玉均の扱いには結構気を使ったようである。
かくて6月12日、正式に退去命令が伝えられたのであるが、金玉均は退去期限が迫っても一向に去る気配を見せなかった。
金玉均の不満
金玉均は6月14日には自ら神奈川県庁に来て県令に面会を請い、県令と警部長との間で以下の問答をした。
金 「前日に領した退去命令書について熟慮した事に、文中に『現朝鮮政府に不快の感覚を起さしむるのみならず、又我邦の治安を妨害し且つ外交上、平和を障碍するの虞あり』との字句があるが、自分が日本に居るために朝鮮政府の交誼を害して外交上の妨害となるだろうことは、自分も信じて疑わないことである。しかしその為に日本国内の治安を妨害する云々に至っては、決してそのような事の理がないのは最も明瞭であると信ずる。もしこの命令書を甘受するなら自分は他日欧米各国に赴く事があっても、自分が朝鮮の国事犯というだけでなく、併せて日本国の治安を妨害した者であるとの指斥されることになる。自分の面目に関すること大である。そして日本政府に於て自分が日本の内政に妨害を与えなかったことを知られれば、たとえこの治安妨害の一句を削られても、自分を国外に退去させることに何の妨げとなろうか。願わくばこの一句を削除ありたい。又、追放の二文字がある。頗る面目に関る文字である。これを少しく穏やかな文字に改正されたい。」
県令「そもそも治安を妨害する云々の字句は、同人の行為を指定した文意ではない。ただ治安妨害の虞ありと日本政府が信認したもので、言わば日本政府の意志を写し出したに過ぎないものであるので、同人の面目に関する憂いはないはずである。しかしこの命令書は、内務大臣の発せられたものなので、本官に於いてこれを説明すべきものではない。まして命令書の更改削除するなどのことは無論本官の権内のことではない。強いて請求があるなら一応本官から内務大臣に具申してもよいが、大臣に於てもこれを更改削除されることはないだろう。」
警部長「追放の二字は、もし貴下が命令書指定の期限内に立ち去らない時には公力によって追放の処分に及ばん事を予告したものであり、即ち次点の処分を示したものなので、貴下が期限を誤らないなら無論のこと追放の処分には及ばないことなので、いささかも差し支えはないはずである。」
金 「追放の字についてはただ今の御弁解により了解した。ただ、日本の治安を妨害するとの点についてはどうにも甘受し難い。なにとぞ貴官から内務大臣に伝達されるよう御尽力あることを切望する。」
県令「承諾した。」
それに対しての山縣内務大臣の回答は、
「金玉均が現に我が国の治安妨害の所為があると言うのではないが、そもそも本人が我が国に滞留するなら必ずその虞がないことを保証出来るものではない。現に大井憲太郎の事件などは、たとえ本人がその事情を知らないとしても、彼等は金玉均の名を借りて事を挙げんとした。これはつまりは金玉均が滞在するからである。よって単に滞留するときはその虞あり、という趣旨であって、その字句があっても金氏において顧慮するに足りないものである。」
であった。(以上「金玉均本邦退去ノ件/3 明治19年8月14日から明治20年7月30日」p3の「朝鮮人金玉均追放顛末書」より)
山縣は、先の大阪事件についての警視庁の探偵によれば、当初は事件に関っていたではないか、とまでは言わなかったようである。
仏国公使、金玉均の引き取りを申し出る
6月23日、金玉均は、「ヘンリー チャーレス リッチヒールト(Henry Charles Litchfield)」なる代人を使って横浜軽罪裁判所に池運永を正式に告訴した。(「韓人池運永関係ノ件/3 明治19年6月23日から明治20年4月12日」p28)
それに対して検事局は、地運永が既に朝鮮に送還されているので受理する必要も無かったが、提出書類のみは受け取った。
また、退去期限の6月27日には、金は神奈川県令に、旅費が無く負債の返済も覚束ないと、7月中旬までの退去期限延長を願い出た。
よって神奈川県令は7月13日の米国サンフランシスコ港行郵船が出帆する日までの延期を申し渡した。
井上外務大臣はそれに対して7月13日を経過すればいよいよ抑留する旨通知するよう命じた。
しかし13日までに更に退去の様子なく、ついに神奈川県令は抑留処置の手続きに入った。
7月13日、県令は金玉均が宿泊する横浜グランドホテルがフランス人経営であるところから、在横浜仏国領事に面晤して抑留の事情を話したところ、領事は東京の仏国特命全権公使の意向として、金玉均を仏国郵船会社の郵船に搭乗させたいとのことであると話した。
驚いた神奈川県令は、重大事であるから正式な書面で照会するように求めると、領事は、正式な書面を出せる性質のものではないと答え、この話はそれ以上進まなかった。
その後、仏国公使からそのことについて書簡があった。
(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p36)
外務大臣伯井上馨殿 仏国特命全権公使 シエン キエ ウヰツ
仏人所属の旅館に止宿する朝鮮人金玉均抑留のことについて、神奈川県令から在横浜仏国領事に協力を請求したことは、同領事ルクーより本月13日付けで拙者に通知があった。また、右朝鮮人は横浜市街並びにその近傍を自在に散歩していることも申し添えていた。
金玉均の日本管轄地退去の事は、とにかく貴国政府には御切望なられているが、その望みを実行する手段がないことは拙者も承知しているので、予め神奈川県令と協議をした上で、右朝鮮人を仏国郵船会社の郵船に乗せることを我が領事へ勧告して置いた。
もっとも、もし金玉均が郵船に乗るのを拒むことがあるならば、拙者は他の手段に依頼するつもりである。
しかしながら別紙書面によって御承知なられる通り、不幸にも沖氏(神奈川県令 沖守固)はその方略についてルクー氏と熟議するのを拒んだ。
又、他方からこれを察するに、日本政府に於ては、金玉均を抑留されようとする気は更に無いように見える。
右朝鮮人を仏国郵船に乗せることについて、閣下には御異論あろうか。前日の状況がこのようだったので、ただこの事に付いて閣下に御問合せして貴意を得たいと思う。
敬具
千八百八十六年七月十七日東京に於て
よって外務省は神奈川県に問い合わせ、先の照会の事由を得て仏国公使に説明し、それにより公使は再び領事に命じて仏郵船搭乗の事を進めんと金玉均に面晤させた。
しかし金玉均は領事のその話に、外国に行くとなれば諸準備の為になお1ヶ月は猶予が必要であると述べただけであった。
その事を神奈川県令が領事から聞いたのは7月22日であった。
もはや抑留執行すべし
またその前日21日には、内務大臣山縣有朋から井上外務大臣に宛てて次のような書簡が送られている。
(「金玉均本邦退去ノ件/1 明治19年5月29日から明治19年7月26日」p33より現代語に。)
二百十八号
金玉均処分の事に付いては、かつて御協議の上で十五日以内に我が国を立ち去らせるべき旨を地方官に命令いたしたが、その期限に迫って止むを得ない事情によって暫らく猶予したいとの神奈川県令から具申があったので、なお又御協議の次第もあり、本月13日頃までは延期し置くとしたのであるが、その日を過ぎても処分の運びにならず、過日来数回秘書官を以って青木次官と協議したわけであるが、今もって断然処分することになっていない。
しかるに先頃よりこの一件は内外の新聞に散見し、甚だしきは、自分から地方官に下付した命令書までも紙上に掲載して議論を試みるものまである。
このまま日数を経過するなら、単に本官の命令の信用を失うかもしれないだけでなく、幾らかは政府の体面にも関係が及ぶことになると思われる。もとより等閑に付せられてはいないだろうが、尽力されて取り急ぎ処分の運びとなるようお取り計らいされたい。
明治十九年七月廿一日 内務大臣伯爵山縣有朋
外務大臣伯爵井上馨殿
山縣の「俺が悪者にされとるっちゃ」とでも言ってるかのような不満顔が見えるようである。(笑)
7月25日、もはや抑留執行すべしと外務省から神奈川県令に伝達。日曜日であったので翌26日に抑留処置を決行。仏領事共々横浜グランドホテルに向かい、領事自らホテル館主に令状を示し、神奈川県官吏は金玉均に命令状を交付した。
金玉均を人力車に乗せて宮崎町の共衆園に送致。
7月29日、神奈川県警部長、外務課長らは共衆園に赴き、金玉均の従者4人が共に宿泊していることに対し、従者が昼に会うは自由であるが宿泊は許さないことを伝え、更に、この後、金玉均が諸外国に去ることを望むなら我が政府はその意に任せ、又その為の旅費は支出する事を告げる。
それに対し金玉均は、
「自分は去る7月13日の期限に遅れ、結局は貴政府の処分に任せる他は無いと考えていたが、その事を聞いて更に熟考して計画の上、速やかに何らかの返答をしたい。」
と答えた。
7月31日、神奈川県警部長は金玉均に、8月3日に米国行郵船が本港を出発する事を告げ、どうするかを問うた。
金は、「資金を工面しているがとても3日までには成し得ない。13日までにはその事をして米国に向かいたい。また旅費は支弁するとのことであるが、日本を去る以上は旅館の宿料その他各商家の買掛金などを支払い終えないなら大いに面目に関る。また外国に到着してもその日から路頭に迷うようなことはしたくない。よって3日の郵船に乗る事は出来ない。」
と答えた。
警部長は、つまりはそれは見通しが立たないので、結局は日本政府に処分を任せると言う意味か、と問うと、金は、その処分に任せる他は無いと述べた。
8月1日、神奈川県知事は、井上外務大臣に稟議してその指揮を得て再び警部長をして金玉均に告げさせた。
警部長「もし来る8月3日の米国行き郵船に搭乗することが出来ないとするなら、我が政府は断然5日の日には小笠原島に送致するのでその旨了解するように。なお生活上の必需の費用に限り支給する。又、従者が従うも内地に居るも自由であるが、もし同行を願い出るならそれを許し同様支給する。」
金 「自分の信じる道理と日本政府の処置と反対であると思量する点があるが、一国政府の権力を以って処分されるものに対し、多言を以って論難するも無益である。謹んでその処分を受けよう。」
警部長「4日までに資金を得て外国に行く確証を出すなら、13日の出航する日までは猶予するが。」
金 「今、内外友人に百方金策を頼んでいるので、事成れば島流しの恥を免れるのであるが、期限が大いに短縮したので必至成り難いことである。」
警部長「金策を依頼した人名を知るなら、間接にその事を促して助ける手段もあるが。」
金「御好意は感謝するが、依頼した友人は自分との交誼によって周旋しているので、それを他人に話しては却って交誼を損ずる。故に氏名は告げられない」
(以上「金玉均本邦退去ノ件/2 明治19年7月24日から明治19年8月10日」p23より抜粋)
8月3日、山縣内務大臣は、小笠原島送致のために本日付で金玉均を東京府に引渡すように命じた。
しかし神奈川県は、東京府知事から7日午後4時に横浜碇泊日本郵船会社の帆船秀郷丸に護送されたいとあり、また、金に4日中の金策期限を伝えてある事から、5日付けで命令書を発したい旨を内務大臣に稟議してその裁可を得、よって命令所の日付に3日とあるを5日と変更した。
8月5日、神奈川県は警部長をして内務大臣命令書を伝達させた。
警部長が命令書正本を示し、その謄本を交付すると、金玉均はそれを拒んで、
金 「日本政府は先に自分を外国に追放する命令を発布されたのに、今更に小笠原島へ護送すべき旨の命令があるのは何事ぞや。必ずその理由があるはずである。その理由を命令書中に御明示ないならこれは受領し難い。まして小笠原島に護送されるような事は決して甘んじて承服し難い。」
と言った。
よって警部長は一旦県庁に戻ってそのことを告げたので、県知事は外務、内務両次官の訓示を得て、翌6日午前に再び警部長に命じて金玉均に言わせた。
警部長「小笠原島に護送の事は先の命令書に記する処分を変更したものではない。即ち、命令書中の抑留処分の一部に外ならない。外国追放のことは追って執行されるも図り難い。」
金 「そのことは了解した。しかし、そもそも島に配流されるようなことは、刑の最も重いものであるから、明らかにその罪名を示されないなら承服し難い。」
警部長「この処分は行政処分であり、刑法上のものではないので、罪名を記す筋のものではない。」
金玉均はこれを承服せず、遂に命令書の受領を拒否した。
警部長は、「命令書受否にかかわらず、明日7日午後4時を期して船に護送する」と伝えた。
同6日午後、金玉均は人をして、「いよいよ資金が調達できる見込みなので、直ぐに米国行きの乗船切符を買い、これを証として出願するので、小笠原島行きのことは見合わせられ、次回の米国郵船で米国に渡る事を聞き届けられたい。」との願い出があった。
神奈川県ではこれに対し、到底信じられるものではないとしたが、金策を周旋している日本人、朝吹英二なる者から、資金3千円を以って負債償却は勿論、必ず次回の米国行きの郵船で出発させる、との願い出もあるので、外務課長を東京に派遣して、外務、内務両次官の指揮を問うた。
よって、外務次官からは、
「乗船切符だけではその証は薄い。別に若干の金銭と米国に必ず渡るとの証書を提出させ、出航の日まで知事の手許に預かり置くことが整うなら、そのことは聞き届ける。」
との指示があった。
(またこの日、金玉均の従者の一人が東京に至り、米、露、英、仏、独、伊、清の7ヶ国の公使館を訪問して封書を一通ずつ差し出している。(「金玉均本邦退去ノ件/3 明治19年8月14日から明治20年7月30日」p2))
7日朝、外務課長はその指示を得て帰庁。
同日午前9時、警部長は共衆園に至り、金玉均に昨日の願い出に対する指示を伝え、午後1時までに答えるように伝えた。
午後3時、警部長は返答を求めて再び共衆園に。
金「次回の郵船で米国に渡航するとの証書と切符のことは何時でも差し支えなく、その保証も朝吹に依頼して承諾を得た。しかし同人が保証した上は、自分の抑留を解き、自由を許されるか。」
警部長「朝吹の保証はただ小笠原島護送を見合わせて、米国行きをする為である。日本政府は例えその保証があっても出立の日までは抑留を解くことは出来ない。」
金 「抑留を解かない以上は、朝吹が保証してくれても自分をこれを依頼するを好まない。」
警部長「保証を依頼する、しない、は貴殿の都合であって日本政府は関係無いことである。もし保証を依頼しないのであれば、直ちに政府の命令を決行するのみ。それならば最早予定通りに船に護送する外はない。
公力行使す
これに於いて神奈川県知事は、東京府に電報して速やかに受取り官の出張を促し、護送に着手するため、警部長、外務課長、以下警部巡査10余人を共衆園に派した。
先ず警部長が出発の事などを告げ、従者が願い出るなら共に小笠原に行く事を許可すると述べ、金玉均に同行するかを問うた。
しかし従者4名は、政府の命令書に罪名を掲げないのは不服である、との旨を口々に言い募るばかりであった。
また、金玉均に出発を促しても悄然として動かず、唖然として一語も発せず、以って警部長は更に警部、巡査等を呼び寄せ、いよいよ自ら出発しないなら止むを得ずに公力を用いて執行する、その時は身体に警察官吏が手を掛けることになる、よって速やかに応じるべきである、と再三求めたが、何等の返答も無かった。
よって警部に命じて引き立てに着手させたが従者が立ちふさがって妨害し、百方説諭したが止めないので巡査をしてこれを引き離させ、更に金玉均を引いて馬車に乗せ、弁天橋から小蒸気船を以って本船秀郷丸に護送した。
やがて従者らも静まり、別れを告げたいと懇願したのでそれを許し、荷物などを片付けさせて共に再び小蒸気船を以って本船まで送った。
本船出航は10日までに延期されていたが、内務次官の訓令を以って東京府知事と協議し、直ちに抜錨することに決した。
夜、東京府から出張の警部が受け取り、同行を願い出た一人の従者李允果なる者と共に金玉均を乗せた秀郷丸は、翌8日午前5時、横浜港を出航して品川沖に停泊。9日午前6時を以って小笠原島に向けて航行した。
(以上「金玉均本邦退去ノ件/3 明治19年8月14日から明治20年7月30日」p3の「朝鮮人金玉均追放顛末書」より)
チャンスを繰り返し与えて延期に次ぐ延期、更に旅費も支給する、或いは小笠原島での生活費も支給する、従者にも支給すると。
もしこれが、朝鮮と日本の立場が逆であったらどうしたろうか。おそらくは即座に本国に送還したか、「病死」とでもしたであろう。
朝鮮人は人情に厚い、などと言う者があるが、日本人の方が遥かに情け深く仁義に厚いと思われる一件であったと筆者には思える。
国内事情と金玉均
さて以上の、大阪事件、地運永事件、金玉均の国外退去と一連の流れで見ていくと、当初金玉均を支援していた旧自由党の日本人有力者は次々と彼から離れて行き、国外退去を口頭で告げられた6月2日には、すでに日本人援助者もほとんどおらず、金員も無く、商店には買掛金が溜まり、宿泊料支払いも出来ず、それでも横浜グランドホテルなる超高級ホテルに滞在し続けて人をして金策に走らせていたと。
この後、ホテル代などを日本政府が払ったかどうかまでは分からない
水溜内の暴風
佐党[土佐]がふっとうして
外にこぼれると
いけないから
皆様気を
御つけなさいよ
狂歌
職人が佐党乃加減とりそこね、味わるくせし
この自由糖
喰べるわけもいかなければ
仕方がないから
南洋群嶋えでも押流し
金玉糖[金玉均]乃仲間え入れてやろう
土佐の国
気を付けよ 監督しようよ
(「在横浜佛人経営狂画雑誌発行停止ノ件/4 TOBAE〔第24号〕」p6より。)
上の絵は、仏人画家ビゴーの諷刺画であり、明治21年(1888)2月号「TOBAE(鳥羽絵)」に掲載されたもの。
当時の自由民権運動などの昂りを、薩長政府に対する土佐勢力の沸騰として描いていて興味深い。伊藤、井上、山縣、森、などお馴染みの顔が並んでいる。
アジ歴簿冊「新聞雑誌出版物等取締関係雑件 第一巻」には横浜の外国人居留区で定期刊行されていたビゴーの「狂画雑誌TOBAE」から抜粋されたいくつかの諷刺画が収録されている。
内容はともかく、ビゴーの絵は味わいがあり絵画として面白い。
散々なまでの日本政府政策批判と大臣達への中傷が満載されているが、日本文を添えることによって日本人の間にもよく売れたらしい。
あまり過激なので神奈川県知事が1月に、「日本語の文章を入れて日本人に供するものとなっており、我が国の治安に関る虞あり」として取締を上申している。
しかし、散々その諷刺の対象にされている伊藤博文、山縣有朋、大隈重信らは、外国雑誌を取り締まることも難しく、また治安を乱すまでに至っていないとして放置して差し支えないと、2月に神奈川県に通達。もっとも、今後の内容次第では取り締りとなるかもしれないとした。
ところが山縣は、2月の伊藤への書簡では「中には幾分かの誹謗の意を写したような点もあるが、こと更に険悪の意を以って治安を妨害せんとする手段に出たものとも認め難い。要するに、異様奇譚の絵画を掲げて、購買者の歓笑を買わんとするに他ならないと思う。」と、余裕だったのが、7月になると「号を重ねるうちに度がひどくなり、掲載の文字も甚だしく誹謗と偽りのものであり、人心を激昂させるところもある。このまま継続するなら将来に治安妨害の虞がある。」と大隈に照会を出している。
さて、山縣が「もう勘弁ならん!」と思ったのは、何号のどの絵であろうか。(笑)
それでも、フランス公使と折衝した大隈重信は、「ビゴーは公使館にも全く近寄らず、住所も特定出来ず、且つ外国人のことであるからどうしようもない。雑誌は荒唐無稽のことを記して見る者の笑観に供するだけであって、施政上差し支えることもないだろう。」と山縣に返事して、結局のところそのまま放置となっている。
これはビゴーが大隈のことは余り悪く描いてもいないようであるからだろうか。(笑)
(以上「在横浜佛人経営狂画雑誌発行停止ノ件/1 横浜於テ仏国人「ジエー、ビゴー」ノ刊行スル「トバエ」雑誌禁止ノ件 明治21年1月14日から〔明治21年7月14日〕」より。)
本文の流れとはあまり関係ないが、たまたま金玉均の名が出てきたので・・・。
その他エピソード
入国して来る朝鮮人には警視庁などが探偵を付け、その行動等を詳細に報告しており、朴泳孝や金玉均とその従者たちは勿論、地運永など彼等に接近する者など、或いはそれ意外の様々な朝鮮人も監視対象となっている。
例えば、
・公使館設置に関して来日している者(李源兢)とその従者。
・鬱陵島で伐採して木材を米国人に売る者。
・朝鮮国王妃(側室)の弟と称し、日本語に堪能で洋服和服を着こなし、日本人博徒や不良の士族と交際し豪遊する者。
・神戸港で金銭尽きて困窮し食を人に求めんとするまでになっていたが、神戸の新聞社員に拾われて新聞職工として雇われ、日本人社員宅に同居を許された者。
・日本郵船会社の船を買い入れに来ている者。
などが報告されている。
(以上「韓人ニ関スル警視庁及兵庫県庁ヨリノ報告/1 明治19年1月7日から明治19年7月6日」、「韓人ニ関スル警視庁及兵庫県庁ヨリノ報告/2 明治18年12月19日から明治19年9月18日」より)
中に金玉均の挙動監視報告の中でより詳細なものがある。
(「韓人ニ関スル警視庁及兵庫県庁ヨリノ報告/1 明治19年1月7日から明治19年7月6日」p26~より抜粋、要旨)
明治十九年二月十日午前十時、巡査二人を金玉均の挙動視察のために熱海温泉旅館の小林屋に入浴させた。
午後六時十五分、同家召使の者が表帳場で人に語るのを聞く。
「朝鮮人が泊まっているから忙しい。この朝鮮人は日本で言うと参議位の人で朝鮮では第一の人であり、至って立派な人で、そのコックでさえ余程立派な人です。今その人は一番室におります。黒田さんが前に天子様と何か争いをして終に気が合わないところから、日頃この熱海へ入浴にお出でで一昨日にその朝鮮人が連れと共に五人でここへ来たから、何か黒田さんと話でもすると思って東京から巡査が追跡して来たと知らせがあった。しかし外のことでもなく旦那衆と入浴に来ただけのことで、一緒に付いてきた碁打ちの先生は日本第一の人[土屋秀栄]で、昨夜も旦那や朝鮮人や碁打ち先生や平岡さん[陸軍大佐]などで午前二時まで打ち続いた。」と。
金玉均は、本日午前十時三十分から翌朝八時までの間には更に入浴したのを見ず、且つ室内から出たのを見なかった。
碁を共にする者たちが集まって会が開かれた。
金玉均のコックの部屋を訪れて雑話する。今後の滞在を問うに二三週間の見込みという。
金玉均は土屋と終日碁をしている。
廊下を歩く金玉均の面体を確かめようと脇の便所に入ってそこから見た。身長は五尺五六寸(166センチ~168センチ)、色白く、顔大きく少し長く平顔で、体形は肥えている方である。
入浴中の土屋に、今日の勝敗は如何か、と問うと、相変わらず不首尾である、と答えた。
華族中山信徴(元常陸松岡藩の初代藩主)も碁会に訪れていた。
金玉均はその後、黒田清隆伯爵が泊まる相模屋を訪れ面会を求めたが、従者は断り名刺も黒田に届けず。
次に、宮中顧問官の川村純義伯爵(元海軍卿)に面会を求めたが、同様断られた。
名目として碁を共にする者の集まりであったが、金玉均はここではほとんど部屋を出ず、碁のことで会いたいと来る者にも風邪と称して断っている。行動を共にしたのは土屋と平岡ぐらいである。
おそらく、黒田や川村など政府の人間に接近することが目的であったのだろう。
しかし囲碁界でよく知られている、金玉均と本因坊土屋秀栄との交友についての記録でもある。
明治18年2月「朝鮮政府ヨリ受入填補金中不通用ノ洋銀欠損払ノ件」
明治15年の朝鮮事変での填補金として領収した10万円の内、洋銀による5万ドル(日本円換算5万円)の中に通用しない、俗に「音止まり」と称する欠陥貨幣が6百ドル(日本円換算6百円)あった。ために大蔵省はこれを鋳潰して銀地金として売却したが、592円81銭となり、差し引き7円19銭が不足となった。
すでに確認して受け取っているので今更朝鮮政府に不足分を請求するわけにもいかず、外務省支出とするも、結局国庫の支出となることに変わりは無いところから、大蔵省で不足分を補うこととなった。
「音止まり」がどのような状態の貨幣かは分からないが、銀地金になっているから偽造貨幣ではなかったようである。
また、偽造貨幣と言えば、明治17年に次のように日本人が朝鮮国の貨幣を偽造した事件があったことを示唆する記録がある。
明治17年7月「日本人朝鮮国通用貨幣を偽造する者処分方の件」
(「日本人朝鮮国通用貨幣ヲ偽造スル者処分方ノ件」より現代語に。)
本邦人民、朝鮮国に於て彼国通用の貨幣を偽造する者処分の儀に付伺
本邦人民が朝鮮国に於て朝鮮国で通用の貨幣を偽造した者の処分に付いて、朝鮮国駐在領事から伺い出る事件がありました。
これは、(外国貨幣)偽造の廉は刑法中に条項無く、不問とするべきかとも考えましたが、日韓修好条規付録の第七款に、「両国人民、私に銭貨を鋳造する者あれば、各其国の法律に照して処断すべし。」との明文があり、その「私に銭貨を鋳造する」とは、我が人民が彼の国の銭貨を偽造し、彼の人民が我が国の銭貨を偽造するを指すものであって、又「各其国の法律に照」するとは、その本国の銭貨を鋳造することを罰する法律に照らす、との意味であるべきです。なぜならば、我が人民が我が国の貨幣を偽造する者は我が国の法律に照らして処断すべきは論を俟たないことで、修好条規中特に明言するを要しないからであります。よって本件偽造の罪は、右修好条規付録第七款に依り、刑法に照らし内国通用の貨幣偽造を以て処断してしかるべきと、考量します。しかし、外交上にも関しているので、一応伺うものであります。
右は差し掛かった事件なので、至急何分かのご指令を仰ぎます。
明治十七年七月三十日 司法卿 山田顕義
太政大臣三条實美殿
伺の通
明治十七年八月八日
日本の場合、問題を起こすのは大抵民間人である。領事が困惑して司法省に処罰の法的根拠を求める様子が窺える。
明治19年6月 「公使館修築費残額を恤給填補等に転用」
明治17年朝鮮事変における死傷者の恤救と商民損害補填として、朝鮮政府から受領した恤給填補金の分配に際して調査の結果、11万円では足らず、なお5千円の不足が生じた。それで、公使館修築費用として受領した2万円の内、実際に要した費用との差額9千円が残っているので、これから不足額を補うこととした。
また、当時の官員で薄給の者も困難な状態にあり、残額を以て相当の給費を計ることとした。
(朝鮮政府ヨリ受領セシ公使館修築費残額ヲ恤給填補等ニ移用スルヲ許ス)
明治19年6月 「御国旗保管の儀に付照会」
明治15年の朝鮮事変の時に、京城公使館に掲げていた日本国旗は、花房公使一行と共に日本に帰り、その後外務省で保管されていた。一行が公使館を決死の覚悟で突出した時に鈴木金太郎が掲げて走ったあの日の丸である。
それを、明治19年6月に陸軍省所轄の九段遊就館内で保管できないだろうか、との相談が外務次官青木周蔵から陸軍省に照会があり、よって陸軍省はそれを受領した。
当時は「御国旗」と「御」の字を冠して称していたようである。今は政府内でも「国旗」と呼び捨てであろう。
九段遊就館に保管されている当時の「御国旗」を見てみたいものである。
明治15年 朝鮮暴動記 神山清七 豊原国周筆
http://www.singpao.com/zt/cwkls/201303/t20130329_426624.html
鞭落皮開肉綻哀嚎震天
2013-03-29 05:30:00 来源: 香港成报
核心提示:貪官酷吏被剝掉衣裳,光着屁股在架上受刑,一鞭下去,皮開肉綻,哀嚎震天,着實痛快!讓人能有如此遐想,要歸功於一名人大代表,今年1月在廣東省人代會分組討論中,建議引進新加坡「鞭刑」。原來,鑑於廣州刑案日多,該名敢言的警官倡以嚴刑峻法對付刑事犯人,「永遠給罪犯震懾,讓他不敢違法」。
日本侵佔朝鮮時期,發布「朝鮮笞刑令」和「朝鮮笞刑令施行規則」,以嚴酷的笞刑對付半島人民。
貪官酷吏被剝掉衣裳,光着屁股在架上受刑,一鞭下去,皮開肉綻,哀嚎震天,着實痛快!讓人能有如此遐想,要歸功於一名人大代表,今年1月在廣東省人代會分組討論中,建議引進新加坡「鞭刑」。原來,鑑於廣州刑案日多,該名敢言的警官倡以嚴刑峻法對付刑事犯人,「永遠給罪犯震懾,讓他不敢違法」。
鞭刑存在於歷史上各個時期,無論是猶太人、埃及人、敘利亞人、波斯人還是斯巴達人和羅馬人,都用過這種刑罰。鞭刑在中國也叫笞刑,始於東漢文帝,為古代「五刑」之一,是以竹、木板責打犯人背部、臀部或腿部的輕刑,針對輕微犯罪而設,或作為減刑後的刑罰。日本古代有仿自中國唐律的笞刑,明治維新後廢止,但在侵佔台灣和朝鮮時曾施行笞刑,都是打屁股,限打16至60歲的男性。
鞭刑也是一種酷刑,可使犯人斃命。鞭刑官都要經過培訓,執行鞭刑的獄警知道怎樣才能在犯人身上製造最大程度的疼痛,同時產生最小程度的永久傷害。如果有個受過合格培訓的鞭刑官行刑,犯人整個屁股上九成九的皮肉都會破裂,他們能讓每一鞭都打在不同地方,避開破裂之處,這樣能造成最大的痛苦。
當今世界仍有十數個國家實施鞭刑,包括新加坡、北也門、沙特、巴拿馬和阿聯酋等。1993年,一名美國青年費伊在新加坡塗鴉而被判笞刑。費伊為首名判笞的美國公民,此事演變為國際事件,雖然時任美國總統克林頓出面求情,費伊照樣要捱打,只是由六鞭減為四鞭。1986年在北也門,一男子因淫亂罪而被當衆鞭笞1,000下致死。1989年在沙特,四名涉參與聖城麥加炸彈謀殺案的男子被判一人鞭笞1,500下,另三人每人鞭笞1,000下,他們實際上也就是判了死刑。
在香港殖民地時期,笞刑主要針對中國人,英國人因此經常濫用,犯人受罰過程通常吸引大批人圍觀,有人因而受創致死。正如本報報道,1877年港英廢除公開笞刑,但監獄內卻繼續執行,1950年代港府加強監管,以防被濫用,規定未滿14歲的犯人不得鞭打超過6下,未滿16歲不得鞭打超過12下,未滿21歲不得鞭打超過18下,直到1990年才正式廢除笞刑。
話說回來,上述那位人大代表「建言」時,引發哄堂大笑。按其邏輯,如使用嚴酷鞭刑能大幅降低暴力犯罪,並使貪官污吏不再腐敗瀆職,下一步是否為抑制性犯罪的高發而恢復宮刑? 澹軒
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-date-20100118.html
支那には南京虐殺事件の資料館があり、朝鮮には日帝支配資料館があります。
下の写真は、韓国「大韓民国独立記念館」にある、日本人による韓国人への拷問の様子を等身大の蝋人形で、展示してあるものです。
ちゃんとハングル文字で開設もつけられていて、要するに、日本帝国主義者が、我ら同胞にこのような非道をしたから、自分たちはたちあがり、民族の独立を図ったと書いてある。
残酷な仕打ちをしているのは、日本統治時代の憲兵や警察官であり、殴られているのは朝鮮人だとしています。
要するに韓国の独立記念館には、日本官憲による独立運動家に対する拷問の光景を再現した蝋人形が展示され、日本人は残虐な民族だという強烈な印象を訪問者に植え付けようとしています。
独立記念館の拷問の蝋人形
独立記念館の拷問の蝋人形
韓国では、この記念館が小中学生の修学旅行の定番コースとなってます。
当然、ここにやってきた韓国の小・中学生たちは、当然日本への恐怖と憎しみをかきたてられる。
というか、こういうものを小中学生に見せようとする神経がそもそも異常です。
ところが、です。
実際には、ここに展示してある日本軍の服を着た憲兵や、征服警官が、実は拷問を受けている朝鮮人と同じ朝鮮人だと知ったら、彼らはどう思うのでしょうか。
憲兵も警察官も、地域の防犯を担う者です。犯罪の予防を図り、犯人を捜し、検挙し、尋問するのは、言葉や地理に詳しい朝鮮人が採用された。つまり日本は、朝鮮人を補助員として起用したのです。
なぜかというと、言葉が通じない。ですから直接の取調べは、言葉の判る朝鮮人にやらせていたのです。つまり、展示の拷問をしていたのは、朝鮮人であるにほかならない。
日本は、明治43(1910)年の日韓併合のとき、韓国の警察制度の近代化を図りました。
警務総長には日本の憲兵司令官を当て、憲兵と警察を一元化したのです。
なぜ軍の憲兵と警察の一元化を図ったかというと、朝鮮人官憲による横暴、拷問、暴力、強姦が、あまりに無差別に行われていた。
さらには、当時「義兵」などと称して朝鮮人達が行った山賊団による犯行、親日派韓国人へのテロ行為を防ぐためには、断固とした措置が必要でした。
ですから日本は、朝鮮を統治するにあたり、警察力と軍事力を融合させたのです。
そして憲兵・警察の補助要員として韓国人を募集しました。
当時、日本人の憲兵は、1007人。韓国人の憲兵補助員が1012人です。
日本人の巡査は2265人、韓国人の巡査は3428人です。
いずれも韓国人の方が多かった。
そして日本は、法律をつくって拷問を禁止しました。
にもかかわらず、法の執行を行うべく採用した朝鮮人補助員たちは、これまでの宿怨を日本の権力を借りて晴らそうとした。そして同胞であるはずの朝鮮人たちに、過酷な暴行をはじめてしまいます。
実は、それが上にある蝋人形の実際の姿だったのです。
下の写真は、朝鮮の警察官の名簿・名刺です。
朝鮮人ばかりです。
朝鮮の警察官の名簿・名刺
今村鞆は、「歴史民俗朝鮮漫談」(昭和3年)で「朝鮮人は日本の両班取り締まりを感謝したが、下級補助員(補助憲兵、朝鮮人巡査、朝鮮人通訳)の横暴こそ、後の日本に対する悪感情を生んだ。
いかに横暴だったか、驚くべき事例を沢山知っており、一冊の本ができる」と述べています。
さらに中川八洋著「歴史を偽造する韓国」には、次のような記載があります。
すこし長いですが、当時の姿を明確に著わしていると思うので、引用します。
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近代司法制度がすでに確立していた日本にとって、李氏朝鮮を引き継ぐ「旧韓国」の司法は「近代以前」というより「文明以前」であった。
スウェーデンのジャーナリスト(アーソン・グレブスト)が、1904年に朝鮮国内を旅行取材した「悲劇の朝鮮」は、監獄内を自分の眼で見たときのムチ打ち刑の執行の光景と、チュリの刑と呼ばれる拷問死刑の光景を記録しているので、この「文明以前」がよくわかる。
拷問死刑は、まず棒を死刑囚の脚の間にはさみ死刑執行人がその端に体重をかけて死刑囚の脚の骨を砕く。次に腕と肋骨を折る。最後に絹紐で首を絞める、というものであった。
チュリの刑を受ける囚人
(両脚の間に二本の棒を差し込まれている)
チュリの刑を受ける囚人
死刑執行の前に、わざわざ残酷にも全身の骨を砕いたり折るという拷問など、当時の日本では信じられないことであった。が、そのような野蛮な残虐性が朝鮮であった。
マッケンジーの「朝鮮の悲劇」(原著1908年)も次のように記しでいる。
死刑囚でない単なる禁固刑のものも、監獄の都合で殺すのが朝鮮の実情であった。
「監獄は呪詛のまとであり、拷問は自由に行われ、周期的な監獄清掃に際しては一時に数十名の囚人を絞首してしまい、裁判は売買された」
しかし、当時の実態をひたすら歪曲する研究者があとをたたない。
例えば、朝鮮総督府が定めた1912年の朝鮮笞刑令が「朝鮮人に限り之を適用す」(第13条)であることをもって、朝鮮人と日本人とを刑罰上で差別するためにこの笞刑令を定めたとか、異民族弾圧法であったとか、あらん限りの中傷を加える。
が、笞刑は、李朝の太祖李成桂以来、数百年間つづいた伝統的な刑罰であり、それは「旧韓国」の「刑法大全」(1905年〉にも定められている。
しかも「刑法大全」は杖刑を廃止し、そのぶん笞刑を広く適用する定めとしている。
朝鮮が日本国に併合された以上、日本国の刑法が等しく適用されねばならず、「刑法大全」は無効となった。だから笞刑もなくすべきであったというのであれば筋が通る。
しかし日本は、3ヶ月以下の懲役や百円以下の罰金となる朝鮮の貧民の犯罪にいたく同情して・・・
つまり例えば数日間であれ刑務所に収監されれば家族が飢餓に瀕する、あるいは数円ですら罰金を払うとなれば僅かな財産のすべてを失う事態を考えて、朝鮮の伝統的な笞刑をもって罰としたのである。懲役や罰金を見逃す便法であった。
このため、朝鮮笞刑令第4条は、「罰金1円を笞1、懲役1日を笞1」に換算する旨を明記した。
当時の朝鮮の最も貧しい階層では、家族4名、5円あれば1ヶ月は食べられた。
それほど高額な1円が笞1で済むのである。
すなわち、朝鮮笞刑令とは「大岡裁き」で、刑罰を温情的に軽滅する定めであった。
また、「笞刑令施行規則」(1912年)の第1条によって、笞刑執行前に医師が受刑者の健康を診断することが定め、笞を小さくし、執行中に受刑者に飲水を与えるように定めた。
笞刑令第5条をもって、女性や16歳未満の男児への笞刑を禁止した。それ以前の朝鮮では姦通罪の女性に対して苛酷な笞刑を行っていた。
また、笞の長さは1尺8寸(55cm)、厚みは2分5厘(7.6mm)となった(「施行規則第11条」)。
痛みを、それ以前の朝鮮笞刑よりも数分の一に下げるためであった。
臀部とはいえできるだけ肉体に傷をつけないように配慮したのである。
それ以前の朝鮮の笞は長さは3尺5寸(106cm)、厚みは2分7厘(8.2mm)であった。
日本の笞刑と、それまでの朝鮮の笞刑は考え方においても厳しさにおいても全く似て非なるものであった。
しかし、この笞刑令をもって「朝鮮民衆の独立運動に対する抑圧」の法律であったなどと、荒唐無稽な珍解釈をなす研究者が多い。
あるいは「反日」的言動をなした者を弾圧するために、この笞刑が実施された、などという創り話すら流布している。(朝鮮の伝統であった笞刑制度は1920年に廃止された)
李氏朝鮮時代の拷問機器
李氏朝鮮時代の拷問機器
朝鮮人の残虐性は、日本人にはとても正視できない。
文化の相違であろう。
例えば、死刑に際して、面耳それぞれに矢じりを突き刺して首を刎ねるし、首を切り落としたあと手足をバラバラに切断したりする(シャルル・ダレ「朝鮮事情」)。
福澤諭吉を始め日本に多くの知人をもっていた金玉均が、1894年3月に上海で暗殺されたあと、翌4月、朝鮮政府はその遣体に対して首を刎ね、四肢を切断して、胴体を漢江に棄て、頭や四肢を京畿道の竹山に捨てたという。
日本が定めた笞刑令(1920年に廃止)を中傷し歪曲する暇があるなら、残忍な刑罰や不法・不正だらけであった朝鮮司法について、ありのままの正しい歴史を明らかにすべきであろう。
首かせを付けられた李氏朝鮮時代の犯罪者
首かせを付けられた李氏朝鮮時代の犯罪者
朝鮮の刑務所(監獄)の、不潔と残酷さは、言語に絶するものであった。
食事はおかずなしの雑穀のみであった。
さらに、監獄の狭さから囚人数を滅らすために、獄吏が勝手に殺害して「処理」していた。
日本は1909年以来、それを人道的な日本並みに大改善していったのである。
総工費30万円をもって1910年に起工し1912年に完成した、清潔で近代的な京城監獄(のち西大門刑務所と名称変更)は、朝鮮の受刑者にとって地獄から天国に引越しをしたようなものであった。
李氏朝鮮時代の牢屋(動物園ではない)
李氏朝鮮時代の牢屋02
国分三亥(こくぶさんがい、1908年に「旧韓国」の検事総長、のち統監府・総督府高等法院検事長)は、朝鮮には司法はなく行政(警察)の一部であったと、次のように回想している。
「監獄は独立して存在しないで、全く警察の一部にすぎない…。
(1908年になって)日韓協約の趣旨に基いて(旧韓国政府は)司法機関を創設して監獄は司法部に所管を移されたけれども、(京城の)鐘路監獄のごときさえも、未決・既決の区別はほとんどなく、獄内は狭隘陰鬱にしてほとんど土窟のやうであり、乱雑と不潔とは実に想像も及ばぬほどでありました」(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)
柿原琢郎(1920~22年の総督府監獄課長)は、上記と同じ座談会で、平壌地裁次席検事として実際に訪れた(韓国併合直前の)平壌の監獄を、次のように思い出している。
「狭隘なる監房は到底それに応ずることできず、ただ無理押しに押し寵めてゐました。
1坪(畳2枚分)に15、6人も押込むありさまで、在監者(は同時に横臥睡眠をとれないので1日に)3、4回交替にて横臥せしめた。
作業上の設備も被服交換の準備なく、終日終夜着のみ着のままで在房してゐますから、監内の熱気と臭気とは短時間の参観にも堪えられませんでした」(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)
しかし、日本の努力で1910年末にはすべての朝鮮の監獄での1坪当りの収監者数を3分の1の「約5人以内」に下げたのである。
そして1913年頃には、それが「約2.9人」まで大改善された(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)。
「畳2枚に3名」であるから、いつでも横になって寝ることが可能になった。刑務所が受刑者サイドでこれほどの改善がなされたのは、1919年からの新しい総督(斎藤実)のもとで230万円の巨額で監獄の近代化と大拡張を実施したからであった。
ついでに、朝鮮併合直前の朝鮮の裁判所の実情を、旧韓国政府の首席「法務補佐官」であった中村竹蔵が拷問のことを回想しているので紹介しておきたい。
裁判所すら拷問するのが、朝鮮の実情であった。
中村竹蔵は1907年に平理院(「旧韓国」の最高裁判所)に配属となり、ここですら拷問が実施されているのを目撃したのである。
「平理院では法廷の取調の際にしばしば拷問を行ふことがあつたから、たびたび院長(李允用。李完用の兄)に対して之を廃止するよう厳重に要求すると、院長は午後遅くなって出勤するようになつた。
私が退庁するのをまつて夜中に依然拷問行ふことが判り、」(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)
当時の朝鮮では刑事被告人だけでなく、なんと民事でもその被告を拘留し投獄し拷問していた。
島村忠次郎(1907年、水原の京畿道地方裁判所の「法務補佐官」)は回想する。
「私の在職中の出来事で大きなものと思ふのは拷問禁止のことであります。
私は着任後しばしば拷問を行ふのを目撃しました。
その禁止方を伊藤博文総監に具申しついにそれが法令となつて表われた」(「朝鮮における司法制度近代化の足跡」友邦協会)
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いやはやなんともすさまじい限りです。
最後にもうひとつ。
謝永光さんが書いた「日本軍は香港で何をしたか」という本があります。
その本に、香港で実際にあった出来事として、次のような話が出てきます。
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最初の数日間は平穏無事で、日本軍の姿は全く無かった。
ところがある日、突然五、六人の動物のような兵隊が現れ、麻雀をしていた四人の女優を強姦した。
前述の女優は日本軍の馬を管理する男達に暴行されたが、この男達は朝鮮人であった。
香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりも凶暴だった。
この時、民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、殆ど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。
当時、香港住民は日本軍よりも朝鮮人を激しく憎んだ。
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要するに彼ら朝鮮人は、当時の日本という虎の威を借りて、好き放題の横暴を働いていたのです。
そして戦後、日本がおとなしくなる(=弱くなる)と、途端に手のひらを返したように日本人への暴行を始め、さらには自分たちが行った悪辣非道な振舞を、全部日本人がやったこととして宣伝しはじめた。
いまの日本に、韓国や北朝鮮が居丈高になり、竹島を勝手に領有宣言したり、日本人を拉致したり、領海を越えてゴミの不法投棄をしたり、在日コリアンが児童公園を勝手に横取りしたり、日本人の土地を奪って駅前でパチンコ屋を営んだり、政治を壟断しようとしたりするのは、要するに「日本弱し」「日本人はやさしいから、何をやっても許される」と思われているからです。
支那人や朝鮮人が、なぜ西洋人には媚びたのか。
それは彼らが徹底的な報復をする民族であることを、支那人や朝鮮人たちが良く知っているからです。元の統治手法と同じです。
おもしろいもので、虎の威を借りるタイプの人間というものは、自分より弱い者には居丈高になり、自分より強い者には、いやらしいほど卑屈になります。
要するに獣(けもの)と同じです。
やさしさはとても大切なことです。
しかし力のないやさしさは、身近な人の犠牲を伴うものであることを、日本人は学ぶべきです。
力なき正義は、ごまめの歯ぎしりでしかない。
というわけで、今週から40年ぶりに柔道の稽古を始めた、ねずきちでした(*^▽^*)b
【出典・参照】
http://photo.jijisama.org/IHall.html
http://mirror.jijisama.org/kankoku_heigou2.htm#goumon
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/7398/higeki.htm
http://ameblo.jp/dreamtale/theme4-10004057437.html
笞刑に関する整理(四) ~韓国司法及監獄事務委託~
2007-08-23 22:00:00
テーマ:笞刑
さて、今日からは再び笞刑に関する整理に話を戻します。
ってことで、「韓国司法及監獄事務委託」のお話。
この話、元々は1907年(明治40年・光武11年)7月24日の所謂『第三次日韓協約』とその『覚書』が基本になっています。
っつうか、あまりに当たり前過ぎて、これまでウチのブログでちゃんと取り上げて無ぇ・・・。(笑)
ま、取りあえず条文は東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室の『日韓協約』の部分でもご覧になって下さい。
で、その流れを受けて、1909年(明治42年・隆煕3年)7月12日の覚書によって、韓国の司法と監獄事務が日本に委託される事になります。
そんでは、アジア歴史資料センターの『枢密院文書・議事・明治二十一年~昭和四十五年/七十七 日韓覚書(司法監獄)報告ノ件附覚書写(レファレンスコード:A06050090200)』の5画像目から。
覚書
日本国政府及韓国政府は、韓国司法及監獄事務を改善して韓国臣民并に在韓国外国臣民及人民の生命財産の保護を確実にするの目的と、韓国財政の基礎を鞏固にするの目的を以て、左の条款を約定せり。
第1条
韓国の司法及監獄事務の完備したることを認むる時迄、韓国政府は司法及監獄事務を日本国政府に委托すること。
第2条
日本国政府は、一定の資格を有する日本人及韓国人を在韓国日本裁判所及監獄の官吏に任用すること。
第3条
在韓国日本裁判所は、協約又は法令に特別の規定あるものの外、韓国臣民に対しては韓国法規を適用すること。
第4条
韓国地方官庁及公吏は、各其の職務に応じ、司法及監獄の事務に付在韓国日本当該官庁の指揮命令を受け、又は其の補助を為すこと。
第5条
日本国政府は、韓国の司法及監獄に関する一切の経費を負担すること。
右各其の本国政府の委任を承け、覚書日韓文各2通を作り之を交換し、後日の証とする為記名調印するものなり
明治42年7月12日
統監子爵 曽禰荒助
隆煕3年7月12日
内閣総理大臣 李完用
まずは前文。
韓国の司法と監獄事務を改善して、韓国臣民と在韓外国臣民と人民の生命財産の保護を確実にする目的と、韓国財政の基礎を強固にする目的から、左の條款を約定する、と。
在韓外国人について、政体によって「臣民」と「人民」が呼び分けられてるんでしょうね。
第1条は、韓国の司法事務と監獄事務が完備したと認められるまで、韓国政府は司法と監獄事務を日本国政府に委託する、と。
wikipediaの第三次日韓協約の項なんかを見ても、「また非公開の取り決めで、韓国軍の解散・司法権と警察権の委任が定められた。」なんて書かれてますが、これは厳密に言えば間違いで、実質的な掌握はしているものの、委任されたのは今回の「覚書」以降ということになります。
1909年10月まで法部大臣は居ますしね。
ま、どっちにしろ「韓国の司法事務と監獄事務が完備したと認められる」前に併合になっちゃうんですが。
で、第2条では、日本国政府は一定の資格を有する日本人か韓国人を、在韓国の日本裁判所及び監獄の官吏に任用すること、と。
司法事務と監獄事務が委託されましたので、任用も日本政府が行い、施設は在韓国「日本」裁判所及び監獄という括りになるわけです。
第3条が今回のポイントですね。
「在韓国日本裁判所は、協約又は法令に特別の規定あるものの外、韓国臣民に対しては韓国法規を適用すること。」、と。
ここで、日本への司法権委任後も、韓国人には刑法大全を始めとする韓国法規が適用されることが謳われるわけです。
第4条。
勿論、司法権が委任されたと言っても、単独では執行していくことは不可能なわけで、韓国政府側の協力が必要となりますね。
ってことで、韓国の地方官庁や公吏は、それぞれの職務に応じて司法・監獄事務に関して在韓国日本当該官庁の指揮命令を受けたり、補助すること、と。
最後の第5条では、前文の「韓国財政の基礎を鞏固にするの目的」も踏まえて、韓国の司法及び監獄に関する一切の経費は日本政府側の負担、と。
「韓国軍解散(二)」のときに、韓国軍解散詔勅にも触れました。
「朕惟ふに、国事多難なる時に値り、極めて冗費を節略し、利用厚生の業に応用するは今日の急務なり。窃に惟ふに、我現在軍隊は傭兵を以て組織せるが故に、未だ以て上下一致、国家完全の防衛と為すに足らず。」という、要するに歳出削減しなきゃ駄目なんだから、居ても無駄なだけの旧式軍隊を飼ってる暇は無ぇという、ある意味酷い詔勅なわけですが、これを司法制度に当てはめれば、「朕惟ふに、国事多難なる時に値り、極めて冗費を節略し、利用厚生の業に応用するは今日の急務なり。窃に惟ふに、我現在司法制度は前近代的であるが故に、未だ以て治外法権の撤廃を為すに足らず。」ってとこかな。(笑)
ついでですんで、ここでこの覚書に関して、当時の韓国統監であった伊藤博文の具状を見てみましょう。
アジア歴史資料センターの『公文別録・韓国併合ニ関スル書類・明治四十二年~明治四十三年・第一巻・明治四十二年~明治四十三年/韓国司法事務ノ委托〇監獄事務ノ委托〇司法及監獄事務費ノ負担ニ付公爵伊藤博文具状ノ件(レファレンスコード:A03023677200)』の5画像目より。
韓国財政及経済上の状況を熟察するに、全然帝国政府の補助を要せざる時期に到達するには、尚ほ数多の歳月を要すべし。
然らば、両国の為め最有益なりと認むる事項に付、年々相当の補助を為すの外なし。
即ち、両国将来の便宜し、慮り、彼に在て為し得べからざる事項を我に委托せしめ、我に於ても亦彼を保護するに必要なる責務を負担することとし、我力の及ぶ限りを盡して以て扶植誘発の途を講ぜざるべからず。
左に此見地に基き、愚見を披瀝すると共に、別紙協約案を起草し、敢て廟議の採納を乞はんとす。
一 司法事務の委托
韓国保護政策を貫徹し、其効力を普及せんと欲せば、到底治外法権を撤去せざるべからず。
然らば、今日の急務は韓国の司法事務を改良し、先づ韓国臣民及在韓外国人の生命財産の保護を確実にするの方法を講じ、以て条約改正の準備に供せざるべからず。
然るに、韓国に在て積年政治紊乱の主因たる法治の欠点を補はんが為めには、一面法官を養成し、一面国民の法治的習慣を馴致せざるべからずと雖、是一朝一夕の能くする所に非らず、■くも一生期の歳月を俟たざるべからず。
然るに、韓国統治上の一大障礙たる治外法権の撤去を数十年間遷延し、之を等閑に付せば、或は形勢の変移に依り、終に其の目的を達し能はざるに至るやも未だ■■るべからず。
故に、寧ろ今日に於て司法に関する事務を挙て、韓国政府より帝国政府に委托せしめ、純然たる帝国政府の責務として、着々之が改善を図り、一日も速に条約改正の準備を完成せざるべからず。
二 監獄事務の委托
司法事務の改善、予期の如く成功すと雖、監獄の制度之に伴って完備するに非ざれば、未だ以て文明国民をして甘じて韓国に於ける日本の裁判に服従せしむるに足らず。
故に、所謂画龍不点晴の憾なからしめんと欲せば、監獄事務の委托は、我に於て啻に不得已のみならず、寧ろ当然の要求と云はざるを得ず。
三 司法監獄事務費の負担
去る明治40年度以来、帝国政府は6ヶ年に亘り金1,960余万円(内、経常費に属するもの初年度に於て150万円、次年度より年々300万円、臨時費に属するもの最初3年間に合計310余万円)を韓国政府に無利息無期限にて貸与す。
是れ、韓国財政の現状に顧み、保護の目的を達する上に於て実に不得已に出づ。
而して、其貸借の形式を採れるは、単に手続上の便宜に基くが為めにして、事実は即ち同国政府に対する交付金に外ならず。
而して、此貸与金は、明治45年度に至れば契約の期限に達すべしと雖、韓国財政・経済の状況は、今後暫くは到底我補助金を全廃する能はざるが故に、結局補助の必要ありとせば、寧ろ進で本協約に依て帝国政府に委托せしめたる司法監獄に関する経費を帝国自ら負担し、在韓国の裁判所を名実共に日本裁判所と為すに如かず。
韓国の現状を見れば、日本の援助無しにやっていくには、更に相当の歳月を要するという前提で、司法事務の委託と監獄事務の委託と、それら経費に関する意見。
つうか、「彼に在て為し得べからざる事項」って。(笑)
司法事務については、治外法権の撤廃を主眼に司法事務の改良を訴え、法官の養成と国民に法治的な習慣を身につけさせる事を指摘し、でもそれには長い年月がかかる。
しかし、そんなに長い期間かけれないから、寧ろ司法事務を日本に委託させて、日本の責務として改善して、一日も早い条約改正の準備を完成させなければならない、と。
で、監獄事務については、司法事務が改善したとしても監獄制度が伴っていなければ意味無いわけで、やむを得ないというより当然の話、と。
最後に、日本は明治40年から6ヶ年にわたって1,960万円あまりを韓国政府に無利息無期限で貸与してる。
これは手続きの便宜上賃借の形式を採ってるけど、実際には韓国政府に対する交付金だ、と。
で、明治40年から6年間ですので、明治45年になればその期限になるわけだけど、現状の韓国財政や経済の状況じゃ、補助金打ち切るのは無理なわけで、結局補助の必要があるなら、日本に委託しさせた司法監獄に関する経費は日本が負担し、在韓国の裁判所を日本裁判所にしちゃった方が良いでそ、と。
ま、この史料はこの史料で、他との関連で結構面白い史料なんですが、取りあえず今回御紹介しておきます。
兎も角、こうして司法・監獄事務が委託され、韓国人には刑法大全を始めとする韓国法規が適用される事になったわけですね。
おまけのせいで長くなりましたが、今日はここまで。
http://www.kjclub.com/jp/exchange/theme/read.php?tname=exc_board_60&uid=122263&fid=122263&thread=1000000&idx=1&page=30&number=92230
2230 併合前の記憶を忘れた韓国人 pinknohat 2010/01/13 472 1
拷問大好き朝鮮民族。
両班の趣味である拷問の伝統を展示したものがこのソウル西大門刑務所。
朝鮮伝統の拷問道具。
拷問の厳しさは李朝朝鮮の遺風
天安の独立記念館へ行くと、日本時代の拷問風景の蝋人形がある。
そのすさまじさは、日本時代がいかに暗黒時代であったか、見学に来た多くの人にアピールしている。
また、ロンドンデーリーミラーの記者、マッケンジーはその著書『朝鮮の悲劇』に、義兵運動の激しかった1906年、二つの監獄を視察し、そのすさまじさを伝え、伊藤博文統監がこのような実態に何らの改善をしないと非難している。
その一部を示す。
地上に縛り付けられている3人の男がそこにいた。彼らの首と足は台柱にくくりつけられ、手は縛り合わされていた。
部屋には明かりもなく通風窓もなかった。
ただ僅かに壁に開けられた小さな穴があるだけであった。彼らの背には笞打ちで裂かれた恐ろしい傷跡があり、その手はきつく縛り付けた縄の為、所々骨が見えるほどに肉が裂けていた。
そしてそれらの傷跡は、全く膿み放題になっていた。
手足の上部は腫れ上がり、笞跡と水ぶくれができていた。1人の男の目はふさがっていて視力を失っており、まぶたからはたくさんの膿がたれ出ていた。多分両眼を笞でひっぱたかれたのであろう。
男たちは終日動くこともなしに、こうして監禁されたままなのである。私は彼らを日の当たる場所に連れ出した。それは難しい作業であった。
彼らのうちの1人は四肢が萎えてしまっていて、既に殆ど身体を動かすことが出来なくなっていた。
彼らはみんな飢え衰えて、なにかを嘆願したり抗議したりする気力も失ってしまっていた。そこは私のこれまでに見た限りでの地獄への一歩手前であった。
しかし、これは伊藤が赴任してからわずか一年も経たない頃であり、日本人顧問団もまだ極めて少ない時期であった。
朝鮮の拷問の激しさについてシャルル・ダレは、1866年ソウルで処刑されたダブリュイ主教の手紙を中心に次のように報告している。
「許されている拷問が、未だ数多く残っている。次に主要なものを挙げてみよう。(詳細省略)
1.棍杖(長さ1.6-2メートル、幅20センチ、太さ4.5センチ位の棍杖で殴る)
2.平棒、笞、棒杖
3.骨の脱臼と屈折(3種類ある。その内の1例は、両膝と両足の親指を縛り、その間に2本の棒を入れ、反対方向に引っ張る)
4.吊り拷問
5.鋸拷問或いは足の鋸引き
6.3稜杖(木製の斧若しくは鉞で肉片を切開する拷問」
つまり天安の独立記念館で展示されている拷問の風景は、李朝朝鮮時代の拷問風景なのである。
1906年統監府が設置されたとき、韓国では既に「裁判所構成法」が制定されており、外形上は整っていたが、実質は行政官が殆ど司法官を兼務しており、司法と行政は一体であった。伊藤統監は韓国法部、主要裁判所に日本人参与、法務補佐官を各一名雇用させ、司法事務の指導に当たらせた。
第三次日韓協約、韓国併合と日本の関与が強まると共に司法は独立し、裁判制度が整備された。
この法務補佐官として韓国に赴任した長浜三郎は、拷問の残酷さを見て「未開幼稚の時代には何国も拷問の蛮法はあったろう。我が国も昔時は口供完結を持って罪を論ずという時代もあったが、彼のボアソナード博士が「拷問とボアソナードは両立せず」と絶叫し、
遂に廃止せられてから既に30余年にもなる。
それが今一衣帯水のこの国に来りこの残酷を目睹するに至っては豈に驚かざるを得むのだ」と述べている。
赴任して5ヶ月後「法務補佐官会議」が開催され、その結果拷問廃止を骨子とする法律が制定され、韓国で初めて拷問がなくなる事になったのである。*1
監獄の改善もこの時期に始まった。それまで殆どなかった刑務作業の拡充に努め、出所後の社会復帰の機会の増加を図った。
又僧侶、牧師をして、教誨の任に当たらせると共に、無教育であった受刑者に読み書き、算盤を教えた。入所当時無教育であった受刑者が、獄中から父母に書簡を送り、不幸を謝り、父母を感激させた例も少なくなかった。*2
朝鮮の刑罰規定で異色のものは笞刑である。
朝鮮では五刑の一つとして広く適用されていたが、1912年「朝鮮笞刑令」として正式に採用された。
この対象は朝鮮人の16歳から60歳までの男子に限られ、刑1日又は罰金1円が笞1に計算された。
1日笞30までとし、笞で尻を打つものであった。
執行方法が容易なこと、行刑費が節約となること、犯罪の予防上効果のあること等から残されたが、斉藤実総督時、キリスト教宣教師(米人)の強い要望により廃止された。*3
次に李朝朝鮮の取り調べ、裁判のでたらめな例を2例挙げる。
シャルル・ダレ
「ある日1人の若い常民が、両班の子弟と喧嘩している内に、誤って斧で脇腹を一撃して殺してしまった。
殺人犯である常民は、即座に捕らえられ守令の前に連行された。証人の中には被害者の父親もいた。
一言二言三言訊問した後、守令は斧を持ってこさせてその父親に手渡し、縛られたまま地面に倒れている殺害者を指さしながら、
「こやつが、どのようにお前の息子を打ち殺したか、見せてみよ」と言った。
守令はその父親に犯人をその場で殺害させ、煩わしいこの事件から早く逃れてしまいたかったのだ。」
マッケンジー 国王のロシア大使館逃避後の出来事として。
「第2の詔勅が天下に公布され、兵士たちに自分たちの国王を守り、謀反の首謀者たちの首をはねて国王の所にそれを持参するよう呼びかけた。
この詔勅は集まった群衆の怒りを最高潮にかきたてた。
大群衆が前閣僚たちを殺害しようと捜し求めた。
2人の大臣(前内閣総理大臣金弘集と前農商工部大臣鄭秉夏の2人)が街路に引きずり出され、残忍きわまる方法で殺害された。
その内1人は首の後ろから耳の前にまでわたるひどい深傷を負っていたが、群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声を張り上げた。
群衆はその死体に向かって石を投げつけ、或いは踏みつけ、又或ものはその四肢をずたずたに切り裂いた。
1人の男は自分の小刀を抜きはなって、死体の一つの内股の肉を切り取り、その肉片を自分の口に入れながら、群衆に向かって
「さあ!奴らを食おうではないか」と叫んだ。」
日本はこのような前近代的な制度を廃止し、近代的な裁判制度を取り入れた。
その典型的な例は、伊藤博文の暗殺事件に対する対応である。
伊藤博文は韓国統監の前に、日本の首相を何回も歴任した、近代日本創設の最大の功労者である。
この伊藤がハルピンで暗殺されたのである。
当然日本の民衆は激高した。前述の金弘集首相の例から見て、朝鮮では即刻死刑となったであろう。
しかし日本は彼を「義士」として扱い、二人の弁護士を付け、安重根の法廷闘争を援助したのである。
さらに監獄で出される食事は上等の白米で、果物・茶までつき、さっぱりした衣類の支給、入浴もあった。*4
朝鮮人判事は併合当初、民事では原告・被告共に朝鮮人の場合、刑事では被告が朝鮮人の場合のみ担当できたが、1920年の改正により、日本人判事と法令上も、実務面からも一切の差別はなくなった。
朝鮮伝統の骨折させる拷問方法。(日本には無い)
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GIs Frequented Japan's 'Comfort Women' By ERIC TALMADGE
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/04/25/AR2007042501801.html
GIs Frequented Japan's 'Comfort Women'
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By ERIC TALMADGE
The Associated Press
Wednesday, April 25, 2007; 9:45 PM
TOKYO -- Japan's abhorrent practice of enslaving women to provide sex for its troops in World War II has a little-known sequel: After its surrender _ with tacit approval from the U.S. occupation authorities _ Japan set up a similar "comfort women" system for American GIs.
An Associated Press review of historical documents and records _ some never before translated into English _ shows American authorities permitted the official brothel system to operate despite internal reports that women were being coerced into prostitution. The Americans also had full knowledge by then of Japan's atrocious treatment of women in countries across Asia that it conquered during the war.
Tens of thousands of women were employed to provide cheap sex to U.S. troops until the spring of 1946, when Gen. Douglas MacArthur shut the brothels down.
The documents show the brothels were rushed into operation as American forces poured into Japan beginning in August 1945.
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"Sadly, we police had to set up sexual comfort stations for the occupation troops," recounts the official history of the Ibaraki Prefectural Police Department, whose jurisdiction is just northeast of Tokyo. "The strategy was, through the special work of experienced women, to create a breakwater to protect regular women and girls."
The orders from the Ministry of the Interior came on Aug. 18, 1945, one day before a Japanese delegation flew to the Philippines to negotiate the terms of their country's surrender and occupation.
The Ibaraki police immediately set to work. The only suitable facility was a dormitory for single police officers, which they quickly converted into a brothel. Bedding from the navy was brought in, along with 20 comfort women. The brothel opened for business Sept. 20.
"As expected, after it opened it was elbow to elbow," the history says. "The comfort women ... had some resistance to selling themselves to men who just yesterday were the enemy, and because of differences in language and race, there were a great deal of apprehensions at first. But they were paid highly, and they gradually came to accept their work peacefully."
Police officials and Tokyo businessmen established a network of brothels under the auspices of the Recreation and Amusement Association, which operated with government funds. On Aug. 28, 1945, an advance wave of occupation troops arrived in Atsugi, just south of Tokyo. By nightfall, the troops found the RAA's first brothel.
"I rushed there with two or three RAA executives, and was surprised to see 500 or 600 soldiers standing in line on the street," Seiichi Kaburagi, the chief of public relations for the RAA, wrote in a 1972 memoir. He said American MPs were barely able to keep the troops under control.
Though arranged and supervised by the police and civilian government, the system mirrored the comfort stations established by the Japanese military abroad during the war.
Kaburagi wrote that occupation GIs paid upfront and were given tickets and condoms. The first RAA brothel, called Komachien _ The Babe Garden _ had 38 women, but due to high demand that was quickly increased to 100. Each woman serviced from 15 to 60 clients a day.
American historian John Dower, in his book "Embracing Defeat: Japan in the Wake of WWII," says the charge for a short session with a prostitute was 15 yen, or about a dollar, roughly the cost of half a pack of cigarettes.
Kaburagi said the sudden demand forced brothel operators to advertise for women who were not licensed prostitutes.
Natsue Takita, a 19-year-old Komachien worker whose relatives had been killed in the war, responded to an ad seeking an office worker. She was told the only positions available were for comfort women and was persuaded to accept the offer.
According to Kaburagi's memoirs, published in Japanese after the occupation ended in 1952, Takita jumped in front of a train a few days after the brothel started operations.
"The worst victims ... were the women who, with no previous experience, answered the ads calling for `Women of the New Japan,'" he wrote.
By the end of 1945, about 350,000 U.S. troops were occupying Japan. At its peak, Kaburagi wrote, the RAA employed 70,000 prostitutes to serve them. Although there are suspicions, there is not clear evidence non-Japanese comfort women were imported to Japan as part of the program.
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Toshiyuki Tanaka, a history professor at the Hiroshima Peace Institute, cautioned that Kaburagi's number is hard to document. But he added the RAA was also only part of the picture _ the number of private brothels outside the official system was likely even higher.
The U.S. occupation leadership provided the Japanese government with penicillin for comfort women servicing occupation troops, established prophylactic stations near the RAA brothels and, initially, condoned the troops' use of them, according to documents discovered by Tanaka.
Occupation leaders were not blind to the similarities between the comfort women procured by Japan for its own troops and those it recruited for the GIs.
A Dec. 6, 1945, memorandum from Lt. Col. Hugh McDonald, a senior officer with the Public Health and Welfare Division of the occupation's General Headquarters, shows U.S. occupation forces were aware the Japanese comfort women were often coerced.
"The girl is impressed into contracting by the desperate financial straits of her parents and their urging, occasionally supplemented by her willingness to make such a sacrifice to help her family," he wrote. "It is the belief of our informants, however, that in urban districts the practice of enslaving girls, while much less prevalent than in the past, still exists."
Amid complaints from military chaplains and concerns that disclosure of the brothels would embarrass the occupation forces back in the U.S., on March 25, 1946, MacArthur placed all brothels, comfort stations and other places of prostitution off limits. The RAA soon collapsed.
MacArthur's primary concern was not only a moral one.
By that time, Tanaka says, more than a quarter of all American GIs in the occupation forces had a sexually transmitted disease.
"The nationwide off-limits policy suddenly put more than 150,000 Japanese women out of a job," Tanaka wrote in a 2002 book on sexual slavery. Most continued to serve the troops illegally. Many had VD and were destitute, he wrote.
Under intense pressure, Japan's government apologized in 1993 for its role in running brothels around Asia and coercing women into serving its troops. The issue remains controversial today.
In January, California Rep. Mike Honda offered a resolution in the House condemning Japan's use of sex slaves, in part to renew pressure on Japan ahead of the closure of the Asian Women's Fund, a private foundation created two years after the apology to compensate comfort women.
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The fund compensated only 285 women in the Philippines, South Korea and Taiwan, out of an estimated 50,000-200,000 comfort women enslaved by Japan's military in those countries during the war. Each received 2 million yen, about $17,800. A handful of Dutch and Indonesian women were also given assistance.
The fund closed, as scheduled, on March 31.
Haruki Wada, the fund's executive director, said its creation marked an important change in attitude among Japan's leadership and represented the will of Japan's "silent majority" to see that justice is done. He also noted that although it was a private organization, the government was its main sponsor, kicking in 4.625 billion yen, about $40 million.
Even so, he admitted it fell short of expectations.
"The vast majority of the women did not come forward," he said.
As a step toward acknowledging and resolving the exploitation of Japanese women, however, it was a complete failure.
Though they were free to do so, no Japanese women sought compensation.
"Not one Japanese woman has come forward to seek compensation or an apology," Wada said. "Unless they feel they can say they were completely forced against their will, they feel they cannot come forward."
___
Associated Press investigative researcher Randy Herschaft in New York contributed to this report.
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The Associated Press
Wednesday, April 25, 2007; 9:45 PM
TOKYO -- Japan's abhorrent practice of enslaving women to provide sex for its troops in World War II has a little-known sequel: After its surrender _ with tacit approval from the U.S. occupation authorities _ Japan set up a similar "comfort women" system for American GIs.
An Associated Press review of historical documents and records _ some never before translated into English _ shows American authorities permitted the official brothel system to operate despite internal reports that women were being coerced into prostitution. The Americans also had full knowledge by then of Japan's atrocious treatment of women in countries across Asia that it conquered during the war.
Tens of thousands of women were employed to provide cheap sex to U.S. troops until the spring of 1946, when Gen. Douglas MacArthur shut the brothels down.
The documents show the brothels were rushed into operation as American forces poured into Japan beginning in August 1945.
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"Sadly, we police had to set up sexual comfort stations for the occupation troops," recounts the official history of the Ibaraki Prefectural Police Department, whose jurisdiction is just northeast of Tokyo. "The strategy was, through the special work of experienced women, to create a breakwater to protect regular women and girls."
The orders from the Ministry of the Interior came on Aug. 18, 1945, one day before a Japanese delegation flew to the Philippines to negotiate the terms of their country's surrender and occupation.
The Ibaraki police immediately set to work. The only suitable facility was a dormitory for single police officers, which they quickly converted into a brothel. Bedding from the navy was brought in, along with 20 comfort women. The brothel opened for business Sept. 20.
"As expected, after it opened it was elbow to elbow," the history says. "The comfort women ... had some resistance to selling themselves to men who just yesterday were the enemy, and because of differences in language and race, there were a great deal of apprehensions at first. But they were paid highly, and they gradually came to accept their work peacefully."
Police officials and Tokyo businessmen established a network of brothels under the auspices of the Recreation and Amusement Association, which operated with government funds. On Aug. 28, 1945, an advance wave of occupation troops arrived in Atsugi, just south of Tokyo. By nightfall, the troops found the RAA's first brothel.
"I rushed there with two or three RAA executives, and was surprised to see 500 or 600 soldiers standing in line on the street," Seiichi Kaburagi, the chief of public relations for the RAA, wrote in a 1972 memoir. He said American MPs were barely able to keep the troops under control.
Though arranged and supervised by the police and civilian government, the system mirrored the comfort stations established by the Japanese military abroad during the war.
Kaburagi wrote that occupation GIs paid upfront and were given tickets and condoms. The first RAA brothel, called Komachien _ The Babe Garden _ had 38 women, but due to high demand that was quickly increased to 100. Each woman serviced from 15 to 60 clients a day.
American historian John Dower, in his book "Embracing Defeat: Japan in the Wake of WWII," says the charge for a short session with a prostitute was 15 yen, or about a dollar, roughly the cost of half a pack of cigarettes.
Kaburagi said the sudden demand forced brothel operators to advertise for women who were not licensed prostitutes.
Natsue Takita, a 19-year-old Komachien worker whose relatives had been killed in the war, responded to an ad seeking an office worker. She was told the only positions available were for comfort women and was persuaded to accept the offer.
According to Kaburagi's memoirs, published in Japanese after the occupation ended in 1952, Takita jumped in front of a train a few days after the brothel started operations.
"The worst victims ... were the women who, with no previous experience, answered the ads calling for `Women of the New Japan,'" he wrote.
By the end of 1945, about 350,000 U.S. troops were occupying Japan. At its peak, Kaburagi wrote, the RAA employed 70,000 prostitutes to serve them. Although there are suspicions, there is not clear evidence non-Japanese comfort women were imported to Japan as part of the program.
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Toshiyuki Tanaka, a history professor at the Hiroshima Peace Institute, cautioned that Kaburagi's number is hard to document. But he added the RAA was also only part of the picture _ the number of private brothels outside the official system was likely even higher.
The U.S. occupation leadership provided the Japanese government with penicillin for comfort women servicing occupation troops, established prophylactic stations near the RAA brothels and, initially, condoned the troops' use of them, according to documents discovered by Tanaka.
Occupation leaders were not blind to the similarities between the comfort women procured by Japan for its own troops and those it recruited for the GIs.
A Dec. 6, 1945, memorandum from Lt. Col. Hugh McDonald, a senior officer with the Public Health and Welfare Division of the occupation's General Headquarters, shows U.S. occupation forces were aware the Japanese comfort women were often coerced.
"The girl is impressed into contracting by the desperate financial straits of her parents and their urging, occasionally supplemented by her willingness to make such a sacrifice to help her family," he wrote. "It is the belief of our informants, however, that in urban districts the practice of enslaving girls, while much less prevalent than in the past, still exists."
Amid complaints from military chaplains and concerns that disclosure of the brothels would embarrass the occupation forces back in the U.S., on March 25, 1946, MacArthur placed all brothels, comfort stations and other places of prostitution off limits. The RAA soon collapsed.
MacArthur's primary concern was not only a moral one.
By that time, Tanaka says, more than a quarter of all American GIs in the occupation forces had a sexually transmitted disease.
"The nationwide off-limits policy suddenly put more than 150,000 Japanese women out of a job," Tanaka wrote in a 2002 book on sexual slavery. Most continued to serve the troops illegally. Many had VD and were destitute, he wrote.
Under intense pressure, Japan's government apologized in 1993 for its role in running brothels around Asia and coercing women into serving its troops. The issue remains controversial today.
In January, California Rep. Mike Honda offered a resolution in the House condemning Japan's use of sex slaves, in part to renew pressure on Japan ahead of the closure of the Asian Women's Fund, a private foundation created two years after the apology to compensate comfort women.
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The fund compensated only 285 women in the Philippines, South Korea and Taiwan, out of an estimated 50,000-200,000 comfort women enslaved by Japan's military in those countries during the war. Each received 2 million yen, about $17,800. A handful of Dutch and Indonesian women were also given assistance.
The fund closed, as scheduled, on March 31.
Haruki Wada, the fund's executive director, said its creation marked an important change in attitude among Japan's leadership and represented the will of Japan's "silent majority" to see that justice is done. He also noted that although it was a private organization, the government was its main sponsor, kicking in 4.625 billion yen, about $40 million.
Even so, he admitted it fell short of expectations.
"The vast majority of the women did not come forward," he said.
As a step toward acknowledging and resolving the exploitation of Japanese women, however, it was a complete failure.
Though they were free to do so, no Japanese women sought compensation.
"Not one Japanese woman has come forward to seek compensation or an apology," Wada said. "Unless they feel they can say they were completely forced against their will, they feel they cannot come forward."
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Associated Press investigative researcher Randy Herschaft in New York contributed to this report.
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122 ex-comfort women for U.S.army bring a class action lawsuit against Korean goverment
http://ajw.asahi.com/article/asia/korean_peninsula/AJ201406280035
U.S. military personnel unload cargo at a military base near Seoul during the Vietnam War in 1968. (Asahi Shimbun file photo)
Former 'comfort women' serving U.S. military file damages lawsuit
June 28, 2014
By TORU HIGASHIOKA/ Correspondent
SEOUL--A group of former South Korean “comfort women” who served in government-controlled brothels for U.S. soldiers filed a suit here, demanding state compensation for forced prostitution.
It is the first such legal action in the context of brothels sanctioned by the South Korean government for the U.S. military.
The plaintiffs are seeking 10 million won (1 million yen, or $9,850) in redress for being forced to serve as “U.S. military comfort women” after the Korean War ended in 1953.
The suit, filed in the Seoul Central District Court on June 25, claims that the South Korean government controlled the women's activities and infringed on their human rights.
According to a citizens group supporting the plaintiffs, the women were forced to provide sex to U.S. servicemen in government-designated “special areas” around U.S. military bases in South Korea since 1957.
The group claims that the women's activities were controlled by the government, which also required them to undergo mandatory medical checkups for sexually transmitted diseases. They also claim the existence of government-run camps to accommodate women infected with STDs.
The plaintiffs demanded that the government conduct an investigation to disclose the historical facts and issue an official apology.
By TORU HIGASHIOKA/ Correspondent
http://rt.com/news/169232-military-comfort%20women-korea/
S. Korean 'comfort women' for US military sue state for forced prostitution
Published time: June 29, 2014 14:29
Edited time: June 29, 2014 23:12 Get short URL
American soldiers are on their way to place anti-tank mines on a road, 06 August 1950, to stop the North Koreans from advancing. (AFP Photo)American soldiers are on their way to place anti-tank mines on a road, 06 August 1950, to stop the North Koreans from advancing. (AFP Photo)
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Tags
Arms, Army, Military, North Korea, South Korea, USA
A group of South Korean former “comfort women”, who worked in state-controlled brothels for the US military after the 1950-53 Korean War, has reportedly filed a suit demanding compensation from the authorities for forced prostitution.
It’s the first time that such legal action has been taken regarding the brothels, or “special areas” that were sanctioned by the South Korean government, The Asahi Shimbun media outlet reported.
The women are seeking 10 million won ($9,850) for being made to serve as “US military comfort women” after the Korean War ended in 1953.
The suit, filed on June 25, stated that the South Korean authorities subjugated the women and forced them to provide sex, violating their human rights.
Moreover, the group said that they had been obliged to go through medical check-ups for sexually transmitted diseases.
The plaintiffs also urged the authorities to issue an official apology, revealing the true historical facts.
The Korean War lasted from 1950 till 1953 and split the country in two. During the war, the US intervened as South Korea’s ally, while China were allies of the North.
Throughout the war, UN and South Korean comfort stations operated on the frontline.
However, even after hostilities had ended, between the 1950s and 1960s, some 60 percent of all South Korean prostitutes worked near US military camps.
In 1960, two lawmakers in the South Korean National Assembly called on the country’s leadership to train a supply of prostitutes for the allied military, to prevent them from spending their money in Japan instead.
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Comments (20)
Lefil001 30.06.2014 05:56
Robert B. Glennie 30.06.2014 04:55
No. Japan needs to acknowledge its wartime past. China won't forget the Rape of Nanking. It cannot expect nations to just let these injustices slide.
Japan have apologized over 20 times about its imperial and wartime aggression. You are free to think those apologies are insincere, but an insincere apology is better than no apology at all. Which, by the way, is exactly how many apologies America has issued for their imperial aggression and slave trade. Pardon me if I refuse to join in egregious hypocrisy.
Robert B. Glennie 30.06.2014 04:55
Tsuyoshi Sato 30.06.2014 03:01
US the House of Representatives should withdraw
resolut ion 121 to condemn Japan immediately.
No. Japan needs to acknowledge its wartime past. China won't forget the Rape of Nanking. It cannot expect nations to just let these injustices slide.
Alexander Spamilton 30.06.2014 04:05
Poppy Potts 29.06.2014 17:14
I got news for you: American was definitely not "built by slaves from africa" Nothing could be further from the truth. Blacks wreck stuff, they don't build anything. case in point is Obama
Slaves built the White House and a whole lot of other American structures, and the massive profits generated by their back-breaking work in the cotton fields is what made their masters rich enough to begin terrorizing the whole planet into submission- or prostitution.
Tsuyoshi Sato 30.06.2014 03:01
US the House of Representatives should withdraw
resolut ion 121 to condemn Japan immediately.
Jun Admana 30.06.2014 02:51
Where there military bases, there will be brothels. That is a universal fact.
David 30.06.2014 02:31
USA should start to pay compensation to ALL the countries, people and infrastructure it has Bombed and destroyed, poisoned, left unexploded ammunition like Laos who was not even in the war just their drop of dump and all the people who's lives have been destroyed since they took their cowardly robots into there for their GREEDY agendas.............
David 30.06.2014 02:28
freeworldlogic two 29.06.2014 22:13
A quick search of Korean publications will show this article is entirely made up by the propagandists at the Kremlin..
Hey your a cold war fanatic grow up. USA has such ports all over the world. Pattaya Thailand is one such place made as a play ground for soldiers. It is the sex capital of the world hahaha you really need to use a real internet connection and take off some of the security lol.
jesse 30.06.2014 02:15
Do you really think the Korean news would talk about that ?
They are too busy blaming Japan for everything instead of looking at their own crimes.
Toshiaki Haginoya 30.06.2014 02:12
Surely, in a few years, those Korean ex-comfort women will say they were dragged by US military officers at bayonet point, coerced to be sex slaves for US army, and begin to claim apology and compensation from the United States. Maybe Korean activists will try to build comfort women memorials alongside with existing ones in New Jersey, California, and Washington D.C.
Michael Johnathen 29.06.2014 22:57
freeworldlogic two 29.06.2014 22:13
A quick search of Korean publications will show this article is entirely made up by the propagandists at the Kremlin.
Th ere is literally no mention of any suit in any Korean publication and this would be big news.
Welco me to Russian state propaganda.
http://www.yonhapnews.co.kr/society/2014/06/25/0705000000AKR20140625114300005.HTML
122 Korean women claimed that "we were the U.S. military comfort women",they sued the class action lawsuit.
after the Korean War, those women that they were allowed to the partner for stationed American soldiers under the control of the government, argue that "we were comfort women for U.S. army" have caused a class action lawsuit,seeking the compensation and apology to the South Korean government.
the 122 Korean women who issued it were so-called ex-comfort women for U.S. army in "the base village",deal with American soldiers.
"the vase village", it was the community that vicinities near the U.S. military stationed in Korea in the late 1950s of the Korean War, the women mimics the comfort women system of the Imperial Japanese Army is
'기지촌 여성'국가 상대 집단 손배소송
기지촌 여성 국가 상대 집단손배소
기지촌 여성 국가 상대 집단손배소
(서울=연합뉴스) 한국여성단체연합과 기지촌여성인권연대 등 시민사회단체 회원들이 25일 오후 서울 동작구 대방동 서울여성플라자에서 기자회견을 열고 "정부가 기지촌 내 미군 위안부 피해자들에게 사죄하고 배상해야한다"고 촉구하고 있다. (한국여성단체연합 제공) photo@yna.co.kr
원고인단 "미군 위안부 관리한 정부, 책임 다해야"
(서울=연합뉴스) 이상현 기자 = 국내 기지촌 내에서 성매매에 종사했던 여성 120여명이 국가를 상대로 손해배상 청구 소송에 나선다.
한국여성단체연합과 기지촌여성인권연대 등 단체들은 25일 오후 서울여성플라자에서 기자회견을 열고 "정부가 기지촌 내 미군 위안부 제도의 피해자들에게 사죄하고 배상해야한다"고 촉구했다.
원고인단 122명은 성명서에서 "한국에 '위안부'는 일본군 위안부만 있는 것이 아니다. 정부는 '미군 위안부'제도를 만들고 철저히 관리했다"면서 "모든 성매매를 불법으로 정해놓고 '특정지역'설치라는 꼼수를 써 위안부가 미군 성매매를 하도록 했으며 '애국교육'이라는 이름으로 정신교육까지 시켰다"고 주장했다.
기지촌 여성 국가 상대 집단손배소
기지촌 여성 국가 상대 집단손배소
(서울=연합뉴스) 한국여성단체연합과 기지촌여성인권연대 등 시민사회단체 회원들이 25일 오후 서울 동작구 대방동 서울여성플라자에서 기자회견을 열고 "정부가 기지촌 내 미군 위안부 피해자들에게 사죄하고 배상해야한다"고 촉구하고 있다. (한국여성단체연합 제공) photo@yna.co.kr
이어 "전쟁 이후 가난해서, 또는 인신매매돼 기지촌에 온 우리는 각종 폭력에 의해 강제로 미군을 상대했다"며 "수렁같은 기지촌을 빠져나가려 경찰 등에 도움을 요청했지만 오히려 그들 손에 끌려 돌아왔다. 국가의 누구도 우리를 보호하지 않고 오히려 외화벌이로 이용했다"고 지적했다.
원고인단은 "군 위안부제도는 국가 폭력에 의해 이뤄진 여성인권유린 정책"이라며 "정부는 기지촌 미군 위안부 제도의 역사적 사실과 피해를 명확하게 밝히고 법적 책임을 다해야 한다"고 강조했다.
원고인단은 이날 기자회견에 이어 서울중앙지법에 1인당 1천만원의 배상을 청구하는 취지의 소장을 제출할 예정이다.
한국여성단체연합 관계자는 "원고들은 수십년간 미군 위안부로 살며 수많은 냉대와 경멸을 겪었다"며 "피해를 돈으로 환산할 수 없지만 일단 상징적인 의미로 소송 액수를 정했다"고 설명했다.
hapyry@yna.co.kr
2014/06/25 14:25 송고
http://news.tbs.co.jp/20140625/newseye/tbs_newseye2234101.html
「米軍慰安婦だった」と主張、韓国人女性122人が集団訴訟
朝鮮戦争後の韓国で、政府の管理の下、駐留するアメリカ兵士の相手をさせられ、「米軍慰安婦だった」と主張する女性たちが、韓国政府に対し謝罪と賠償を求め集団訴訟を起こしました。
訴えを起こしたのは、いわゆる「基地の村」でアメリカ人兵士の相手をさせられた「米軍慰安婦だった」と主張する韓国人の女性122人です。
「基地の村」とは、朝鮮戦争後の1950年代後半、韓国に駐留したアメリカ軍の付近にできた集落とされ、女性たちは声明書で「国家が旧日本軍の慰安婦制度をまねて『米軍慰安婦制度』を作り、徹底的に管理してきた」と指摘しました。
その上で、当時、政府が特定地域を売春防止の除外対象としたほか、女性を国家に登録させ、「愛国教育」という名称で教育まで受けさせたと説明しています。
女性たちは韓国政府に対し、「米軍慰安婦制度」の歴史的事実と法的責任を認め、被害者に謝罪するとともに、1人あたり日本円でおよそ100万円の賠償を求める訴えをソウル中央地裁に起こしました。
韓国では、過去にもこの問題が取り上げられたことがありますが、支援団体によると、こうした女性たちが訴訟に踏み切るのは初めてです。(25日19:45)
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-3104.html
韓国で元米軍慰安婦達が集団訴訟
★「米軍慰安婦だった」と主張する
韓国人女性らが集団訴訟
TBS 2014年6月25日(水) 19:45
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2234101.html
朝鮮戦争後の韓国で、政府の管理の下、
駐留するアメリカ兵士の相手をさせられ、
「米軍慰安婦だった」と主張する女性たちが、
韓国政府に対し謝罪と賠償を求め
集団訴訟を起こしました。
訴えを起こしたのは、
いわゆる「基地の村」でアメリカ人兵士の相手を
させられた「米軍慰安婦だった」と主張する
韓国人の女性122人です。
「基地の村」とは、朝鮮戦争後の1950年代後半、
韓国に駐留したアメリカ軍の付近にできた集落とされ、
女性たちは声明書で
「国家が旧日本軍の
慰安婦制度をまねて
『米軍慰安婦制度』を作り、
徹底的に管理してきた」
と指摘しました。
その上で、
当時、政府が特定地域を売春防止の
除外対象としたほか、女性を国家に登録させ、
「愛国教育」という名称で教育まで受けさせたと
説明しています。
女性たちは韓国政府に対し、
「米軍慰安婦制度」の歴史的事実と法的責任を認め、
被害者に謝罪するとともに、1人あたり日本円で
およそ100万円の賠償を求める訴えを
ソウル中央地裁に起こしました。
韓国では、過去にもこの問題が取り上げられた
ことがありますが、支援団体によると、
こうした女性たちが訴訟に踏み切るのは初めてです
(引用ここまで)
関連記事
★‘基地村女性管理’
朴正熙 親筆署名文書 公開
ハンギョレ新聞 2013.11.07
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/15985.html
★韓国軍 '特殊慰安隊'は
事実上の公娼
[創刊 2周年記念発掘特種]
韓国軍も '慰安婦'運用した ②
韓国オーマイニュース 2002-02-26
http://www010.upp.so-net.ne.jp/japancia/kiji/kankokuianfu.html
(略)
'毛布部隊'は訓練所垣根の外で
毛布一枚を '武器'にして、
訓練兵たちを相対する娼婦たちの俗称。
こんな移動式私娼形態の毛布部隊員話は、
美談や神話のように聞こえたりした。
しかし軍が直接慰安部隊を設置して運用したら
問題が変わる。
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▲韓国軍の朝鮮戦争期間 '慰安婦'運用事実を
報道した日本 <朝日新聞>
2月24日付け記事.(太い船内
(続きはリンク先で)
★洋公主って知ってますか?
(朴 正煕が設計した国家買春)
http://hukui-blog.com/monku/cat246/cat260/cat283/post-67.html
韓国軍慰安婦または大韓民国軍慰安婦
(=洋公主のことです。
Korean Military Comfort Women)とは、
韓国軍と在韓米軍や国連軍を相手にした慰安婦。
朝鮮戦争やベトナム戦争では韓国は
アメリカ合衆国を基盤とした連合軍に参加したため、
韓国で設置された慰安所および慰安婦(特殊慰安隊)は
韓国軍だけでなく
米軍をはじめとする国連軍も利用した。
しかもこの慰安所と慰安婦は
現朴 槿惠(パク・クネ)大統領の父親である
朴 正煕(パク・チョンヒ)元大統領が設計したものです。
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フランスで日本軍の従軍慰安婦を断罪した時に
この洋公主と従軍慰安婦を言い間違えて
笑いものにされました。
「洋公主(ko:양공주、ヤンコンジュ、ヤンカルボ)」、
また毛布一枚で米軍基地に
ついて回るという意味で「毛布部隊」、
ベトナム戦争時は「ディズニーランド」
とも呼ばれたそうです。
実在する洋公主と米兵(ハンギョレ新聞)
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米兵と戯れる洋公主(BBC)
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(引用ここまで)
★洋公主のヤミ歴史
http://dogma.at.webry.info/201309/article_1.html
(略)
【懐かしい洋公主の記憶】
洋公主の「洋」は、洋画・洋楽などで
用いられる西洋を示す言葉だ。
そして「公主」は、支那に由来するもので
「天子の娘」「姫君」を表現。
英語では「ヤンキー・プリンセス」と呼ばれることもある。
「洋公主論争」を伝えたのは、
中共のタブロイド紙『環球時報』だった。
なぜ米地方紙のコメ欄で起きた日鮮のやり取りを
クローズアップしたのか不明だが、
この支那由来の言葉に注目したのかも知れない。
http://www.xinhua.jp/socioeconomy/photonews/358510/
これが差別的な表現と指摘される一方、
昔の南鮮紙には「洋公主」の漢字が踊る。
高齢の南鮮人には聞き慣れた言葉でもあった
のだろう。これこそ捏造従軍慰安婦の謎を解く
キーワードのひとつだ。
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(中略)
【実録フィルムの中の洋公主】
北朝鮮サッカーチームの映画で金正日に
気に入られた英国のダニエル・ゴードン監督が
制作した北3部作の完結作品。
それが本邦未公開の「クロッシング・ザ・ライン」だった。
ベトナム戦争中、ソ連亡命を企てて38度線を
越えた米兵ジェームズ・ドレスノクの波乱人生を
描いたドキュメンタリー映画だ。
そこに実物の洋公主が登場していた…
(続きはリンク先で)
★1950、1960年代の韓国の米軍慰安婦
http://sikoken.blog.shinobi.jp/%E8%B3%87%E6%96%99/1950%E3%80%811960%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6
■1957.7.21 東亜日報
「美軍慰安婦身勢悲観自殺」
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20歳と21歳の米軍慰安婦2人が
自らの身の上を悲観して自殺。
■1957.5.1 東亜日報
「黒人下士所行?
坡州の慰安婦殺害事件」
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米軍の黒人下級兵士が慰安婦殺害(疑惑)。
この時代の慰安婦制度では、韓国政府
(もしくは地方自治体?)が慰安婦を
管理していたようです
■1961.9.14 東亜日報
「UN軍相対慰安婦13日から登録実施」
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UN軍(国連軍)相対慰安婦
ソウル市警では市社会局に
「国連軍相手慰安婦性病管理士業界」計画によって
三日から国連軍相手慰安婦の登録を官下一線署に
伝達して実施している。
ところで今度の登録対象は
▲法的婚姻関係がなく
ただ一人の外国人と同居している女性
▲国連軍相手慰安婦などだと言う。
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慰安婦教養講習
伊淡支署主催
★ベトナムの米軍慰安婦
http://sikoken.blog.shinobi.jp/%E8%B3%87%E6%96%99/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%81%AE%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6
しかし何といっても、ベトナム戦の主役は
米軍である。サイゴン(現ホーチミン)を中心に
ベトナム人女性による売春産業は繁栄をきわめた。
米軍の公式戦史はもちろん新聞も、
この領域にふみこんだ記事は
ほとんど報道していない。
幸いライケに駐屯した第一師団第三旅団
(兵力四千)の駐屯キャンプにおける慰安所の
実況について、スーザン・ブラウンミラーが
ピーター・アーネット記者(ピューリッツァー賞受賞者)に試みた
ヒアリングがあるので、次に要旨を紹介しよう。
米軍の性病感染率
一九六六年頃までに、
各師団のキャンプと周辺には
「公認の軍用売春宿(Official military brothels)」
が設置された。ライケでは鉄条網で囲まれた
キャンプの内側にニ棟の「リクリエーション・センター」があり、
六十人のベトナム人女性が住みこみで働いていた。
彼女たちは米兵の好みに合わせて『プレイボーイ』の
ヌード写真を飾り、シリコン注射で胸を大きくしていた。
性サービスは
「手早く、要領よく、本番だけ(quick,strainght and routine)
がモットーで、一日に八人から十人をこなす。
料金は五〇〇ピアストル(ニドル相当)で、女の手取りは
二〇〇ピアストル、残りは経営者が取った。
彼女たちを集めたのは地方のボスで、
カネの一部は市長まで流れた。
この方式で、米軍は
「ディズニーランド」とも呼ばれた慰安所に
手を汚していない形にしていたが、
監督は旅団長で、ウエストモーランド司令官もペンタゴンも
黙認していたのである。
女たちは週ごとに軍医の検診を受け、
安全を示す標識をぶらさげていたが、
それでも米軍の性病感染率は千分比で二〇〇
(一九六九年)に達していた。
(Susan Brownmiller,Against Our Will,1975,PP.9495)
(続きはリンク先で)
今回、集団訴訟を起こしたのは
朝鮮戦争後の韓国で、政府の管理の下、
駐留するアメリカ兵士の相手をさせられ
『米軍慰安婦』だった女性達・・・
どうして、
朝鮮戦争中の、国連軍の相手をさせられた
『国連軍慰安婦』は入れないのだろう?
★崔吉城教授の
『朝鮮戦争における国連軍の
性暴行と売春』を読む
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-2438.html
戦後、日本でも特殊慰安施設協会によって
GHQの米兵の為に慰安所が設置された。
慰安婦だけでなく、米軍の女性兵士の為に
慰安男が彼女達の相手をしていた・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%AE%8A%E6%85%B0%E5%AE%89%E6%96%BD%E8%A8%AD%E5%8D%94%E4%BC%9A
日本の、
サヨク学者・プロ市民・共産・社民などの政党は
戦争中や戦後の「日本人慰安婦」については
無視するか、日本人慰安婦は自発的売春婦などと
論じている人達が圧倒的に多い。
貧困家庭の、家族を助けるために
嫌々売られて行った同じ境遇の女性達が、
韓国女性には「強制された、騙された」慰安婦
日本女性には「自発的売春婦」と決めつける・・・
この問題に熱心なキリスト教社会派でさえもだ。
何故、自国の女性達に対してはこれほどまでに
冷淡なのだろうか?
上記のサイトに記載されている文言が非常に気になった。
■当時の知識人の見解
賀川豊彦は『婦人公論』1947年8月号で
「闇の女に堕ちる女性は、多くの欠陥を持っている」
とし、パンパンについては
「わざと悪に接近」するような悪魔的なところがあり、
「一種の変成社会における精神分裂病患者である」
と指摘している
(中略)
日本の運動側には「醜業婦」観があり、
たとえばYWCAの植村環は
『婦人公論』(1952年5月号)で
「アメリカの寛大な統治を悦び、感謝しており」
とする一方で
慰安婦たち「卑しい業を廃めさせ」るよう要求したり、
「パンパン」を
「大方は積極的に
外人を追いかけて歩き、
ダニのように食いついて
離れぬ種類の婦人」と述べたり、
「あんなに悪性の
パンパンに対しては、
白人の方だって、
あの位の乱暴は働きたくなりますさ」
などと語るなど[57]、
売春問題を買う男ではなく
売る女性の方を問題としていた。
(引用ここまで)
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
賀川豊彦は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E5%B7%9D%E8%B1%8A%E5%BD%A6
キリスト教社会運動家であり、
「貧民街の聖者」として有名な牧師であり、
戦後、日本社会党の結成にも参画した政治家。
植村環も
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9D%91%E7%92%B0
日本キリスト教会の女性牧師・・・
日本YWCA会長や世界YWCAの副会長も務めた。
★ 日 米 混 血 児 の 母
澤田 美喜 (中)
ヨハネ 皆川尚一
http://christ-ch.or.jp/5_torinashi/back_number/2008/2008_12/2008_12_report.html
混血児はどうして生まれたのか
勝利を誇る占領軍にとって、
占領の落とし子として生まれた、
この混血の子供たちのことに触れられるのは、
痛いところだったのです。
わたしの家はアメリカ海軍基地の町横須賀にあり、
わたしは終戦直後の一年間米海軍基地に勤務して
いましたから、米軍が進駐してきてから起こった
米軍将兵による凄まじいレイプ事件を
20歳の頃から見て来ました。
もう戦争は終わったというのに、
昼も夜もそれは起こりました。
米兵を取り締まるMPやSPと呼ばれる「憲兵」たちも
どんどんレイプしていたので、
歯止めが利きませんでした。
海軍基地内はもとより、基地周辺の市街地や
郊外地の路上、そして日本家屋に侵入して
くるのです。
人妻・娘・12,3歳の少女たちにまで
被害者はひろがりました。
もちろん、横須賀だけでなく、
全国約135箇所の米軍施設のある町村に
その被害はひろがりました。
パンパンと呼ばれる米兵相手の娼婦たちは、
そうした被害者たちの中から生まれて、
見る見るうちに数を増して行きました。
日米混血児は主としてそうした被害者たちの
産んだ子供たちだったのです。
GHQ(占領軍総司令部)は、
その実態を知られたくないために、進駐直後の
1945(昭和20)年9月22日にラジオコード、
23日にプレスコードを発令して
ラジオと新聞に対する「報道規制」を行いました。
その結果、多くの日本人が米軍の日本占領は
平和のうちに何事もなく進められたように
錯覚するようになりましたが、
終戦後7年たってもこの情況は改善されませんでした。
エリザベスサンダースホームにはこうした混血児たちが
全国各地から委託されて来ました。
占領軍としては、出来るだけ目立たぬように、
日本中に散らばしておきたかったのだと思います。
(中略)
澤田の知人である善意のアメリカ人たち7人が
お金を集めて寄付してくれたので、
まず清潔なベッドを数台整えて、白い清潔な
シーツを敷き、子供たちをそこに寝かせました。
すると、他のアメリカ婦人のグループが言いました、
「この孤児たちをべッドに寝かせるのですって?
それはぜいたくです。
日本人は日本人らしく
床(ゆか)にごろ寝させればいい―――」
敗戦後の日本は、
東京から横浜まで完全に焼け野原で、
人々は焼け跡に穴を掘り、焼けトタンを寄せ掛けて
ごろ寝していました。道路でも、ガード下でも、駅でも、
列車内でも床(ゆか)に坐ったり、ごろ寝したりする
カーキ色服やモンペ姿の日本人が
大人も子供も多かったのです。
(続きはリンク先で)
★戦後の横浜
http://ririruru.cocolog-nifty.com/minato/2010/01/post-a0ee.html
当時の日本人から「パンパン」と称された
日本女性のなかには色々な方がいました。
例えば市街地の街角で、米兵相手に袖を引く
娼婦たちをパンパンと呼ぶことが多いのですが、
この多くの女性たちは、
神奈川県以外からやって来た、
近畿地方や東北地方からの出身者でした。
当時の記録では、横浜出身者の娼婦は、
全体の20%にも満たなかったそうです。
それとは別に、
横浜には数ある米軍の施設内で働く女性たちも
いました。ある程度の教育水準を有した、
英語に堪能な女性たちです。
タイピストや事務仕事に従事する方々です。
衣服も、食べるものも何も無い時代ですから、
多くの日本人から白い目で観られていましたが、
同時にそれは羨望の眼差しでもありました。
将校さんが運転するジープに彼女たちが乗る姿は、
それこそ当時の若者からは羨望の眼差しで観られて
いたのではないでしょうか。
彼女たちの衣服は、僕たち日本人が手にする事が
出来ないもので、PX内で無税で売られていた
アメリカ本国から送られてくる衣類でした。
食べ物だって同様です。
米軍関係の横流し品も少なくありません。
彼女や将校さんは若いのですから、当然恋愛をします。
深い中にもなるでしょう。
で、結果として郊外の一軒家に女性を住まわせることに
なります。アパートなんて無い時代です。
本来なら彼女たちをパンパンと呼ぶには不公平な
気もします。が、当時の日本人は羨望や憎しみを込め
「パンパン」と呼んでいました。
そのような女性が住む一軒家が、僕の住む長閑な処にも
あったのです。ときどきジープで将校さんがやって来ました。
もちろん彼女たちも神奈川県出身者は少なかったでしょう。
まだ、横浜の市街地には、至る所に戦後の爪跡が残って
いる時代で、瓦礫にぺんぺん草が生えていました。
(続きはリンク先で)
★従軍慰安婦非難、
アメリカの傲慢と偽善。
http://kofukunet.jp/politics_economy_society/942.php
韓国政府よ、
自分達が日本に対してしたことが
ブーメランの如く、己に降りかかって来る。
こんな事は、とっくに想定されていたではないか!
特に、パク・クネさんはね・・・
でもねぇ、私が思うに、一番卑怯なのは
「女性の人権」とか「戦争の犠牲になった女性の救済」
と、正義の拳を振り上げている人権弁護士や市民団体!
「被害女性」を選り好みしているのよ。
日本でも、韓国でも、アメリカでも・・・世界中がね。
「可哀想な慰安婦」と「卑しい売春婦」
「固定慰安所」は証拠が残っているから悪で
「移動慰安所」や「自称;自由恋愛」ならOK
戦勝国は何をしても許されるが
敗戦国は歴史なんて見直すな!
戦勝国が創った歴史を修正するな!
敗戦国の女性は
人妻・娘・12,3歳の少女たちにまで
凄まじいレイプを受けても黙っていろ?
サヨク学者や市民団体は問題視するな?
マスゴミは未だに「報道規制」が有るのでしょうか?
敗戦国の女性には、人権は無いの?
二日町保養所で”処分された”被害女性の子供達も
闇に葬るの?
韓国や、日本の左翼団体は
『ドイツを見習え!』と言うけれど・・・
ドイツは、きちんと
戦後に自国女性が受けた連合軍や旧ソ連兵による
レイプ被害も研究し、記録に残していますよ!
↧
sado lesson
↧
↧
Yankonju,comfort women for Korean and U.S.army
한국군 위안부 洋公主 (ko:양공주、ヤンコンジュ、ヤンカルボ)
comfort women for Korean army
163146 洋公主(米軍&韓国軍従軍慰安婦)のつづき pinknohat 2013/09/22 713 2
敵軍兵を捕らえて娼婦に仕立てるのだ。ジュネーブ条約を持ち出して議論している場合ではない。南鮮で流布される捏造慰安婦の“悲劇”よりも醜悪。完全にアウトだ。
洋公主の物語は、慰安婦捏造ストーリーの元ネタであることは確実だが、歴史の表舞台に突然登場した時期も極めて近い。80年代、南鮮で反米・反軍政ムードが高まる中、基地村の問題が浮上した。
▼基地村闊歩する米兵と洋公主95年(東亜日報)
画像
親北左派の連中が、反米闘争の新テーマとして提起したのである。その過程で90年代初頭、挺身隊を意図的に歪曲した“従軍慰安婦”がクローズアップされる。
その流れか、我が国の左派系組織やフェミ系団体が基地村問題を指摘するケースも目立つ。韓国軍慰安婦の公的資料を発掘したのも、南鮮のフェミニスト女性学者だった。
【語り始めた基地村の洋公主】
「固定式慰安所-特殊慰安隊」
そうした記述が、1956年に韓国陸軍本部が編纂した公文書『後方戦史(人事編)』に残っていた。実績統計として、4ヵ所89人の慰安婦が1年間で20万回以上の“慰安”を行なったと記されている。
参照:朝日新聞アーカイブ『朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度 韓国の研究者発表』
河野洋平の顔面に叩き付けたくなるような資料だが、加瀬英明氏によると約10年前、研究発表に慌てた南鮮政府は、国防部資料室の韓国軍慰安婦資料を閲覧禁止にしたという。
▼置屋前に並ぶ洋公主(LIFE誌)
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確かに青瓦台にとって致命的な歴史資料。特に陸軍将校だった朴正煕の娘は言い逃れできない。しかし資料を隠蔽しても「洋公主」の存在は、NJ州のマラソン主催者が受け答えたように一般に知られている…
南鮮国内に米兵向け慰安婦がウヨウヨいたことを知りながら我が国を罵倒する精神構造は異常だ。日本時代の慰安婦が「20世紀最大の人権侵害」で、洋公主については「ノーコメント」など許されない。
▼物色中の米兵と洋公主(LIFE誌)
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捏造慰安婦が第三国の地方都市でスパークする一方、洋公主は歴史の陰でひっそりした印象だ。
実在の洋公主は、海外巡業に励むこともなく、実名で告発を始めたのも最近である。
▼昨年7月邦訳版出版『基地村の女たち』
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自称慰安婦が適当なウソを並べるのと違い、まだ証言も少なく資料は封印…学術的な研究も滞りがちだ。
しかし、証拠写真どころか活動中の映像まで残っている。反日陣営を攻撃する恰好の歴史事実だ。
しかも洋公主の相手は朝鮮戦争・ベトナム戦争世代に遡る米兵だ。グレンデールなどでやりたい放題の在米朝鮮 人 に鉄槌を下し、米国務省を怯ませることも出来る。
▼米兵と戯れる洋公主(BBC)
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慰安婦捏造派の妄言に反論することも重要だが、洋公主や韓国軍慰安婦をキーワードに真正面から反撃する姿勢も欠かせない。
知られざる洋公主の実像は、捏造慰安婦の壮大なウソを暴く可能性を秘めている。
韓国語で表示
적군병을 잡고 창녀로 키운다.제네바 조약을 꺼내 논의하고 있을 때는 아니다.남선으로 유포되는 날조 위안부의“비극”보다 추악.완전하게 아웃이다.
양공주의 이야기는, 위안부 날조 스토리의 원재료인 것은 확실이지만, 역사의 정식 무대에 돌연 등장했던 시기도 지극히 가깝다.80년대, 남선으로 반미·반군정무드가 높아지는 중, 기지마을의 문제가 부상했다.
▼기지마을 활보 하는 미국 병사와 양공주 95년(동아일보)
화상
친북 좌파의 무리가, 반미 투쟁의 신테마로서 제기했던 것이다.그 과정에서 90년대 초두, 정신대를 의도적으로 왜곡한“종군위안부”가 클로즈 업 된다.
그 흐름인가, 우리 나라의 좌파계 조직이나 페미계 단체가 기지마을 문제를 지적하는 케이스도 눈에 띈다.한국군 위안부의 공적 자료를 발굴했던 것도, 남선의 feminist 여성학자였다.
【말하기 시작한 기지마을의 양공주】
「고정식 위안소-특수 위안대」
그러한 기술이,1956년에 한국 육군 본부가 편찬 한 공문서 「후방 전사(인사편)」에 남아 있었다.실적 통계로서4개소 89명의 위안부가 1년간에 20만회 이상의“위안”을 행했다고 기록되고 있다.
참조:아사히 신문 어카이브(archive) 「한국 전쟁시의 한국군에게도 위안부 제도 한국의 연구자 발표」
코노 요헤이의 안면에 내던지고 싶어지는 자료이지만, 카세 히데아키씨에 의하면 약 10년전, 연구 발표에 당황한 남선정부는, 국방부 자료실의 한국군 위안부 자료를 열람 금지로 했다고 한다.
▼치 가게앞에 줄선 양공주(LIFE잡지)
화상
확실히 청와대에 있어서 치명적인 역사 자료.특히육군 장교였던 박정희의 딸(아가씨)는 발뺌해 할 수 없다.그러나자료를 은폐 해도 「양공주」의 존재는, NJ주의 마라톤 주최자가 대답같게일반적으로 알려져 있다…
남선국내에 미국 병사를 위한 위안부가 우요우요 있던 것을 알면서 우리 나라를 매도하는 정신 구조는 비정상이다.일본 시대의 위안부가 「20 세기 최대의 인권침해」로, 양공주에 대해서는 「노 코멘트」등 용서되지 않는다.
▼물색중의 미국 병사와 양공주(LIFE잡지)
화상
날조 위안부가 제3국의 지방도시로 스파크 하는 한편, 양공주는 역사의 그늘에서 고요히 한 인상이다.
실재의 양공주는, 해외 순회공연에 힘쓸 것도 없고, 실명으로 고발을 시작했던 것도 최근이다.
▼작년 7월 국역판 출판 「기지마을의 여자들」
화상
자칭 위안부가 적당한 거짓말을 늘어놓는 것과 달라, 아직 증언도 적게 자료는 봉인…학술적인 연구도 막히기 쉽상이다.
그러나, 증거 사진은 커녕 활동중의 영상까지 남아 있다.반일 진영을 공격하는 모양의 역사 사실이다.
게다가양공주의 상대는 한국 전쟁·베트남 전쟁 세대에 거슬러 올라가는 미국 병사다.그렌데이르등에서 제멋대로의 재미 조선인에 철퇴를 내려, 미국무성을 기가 죽게 할 수도 있다.
▼미국 병사와 노는 양공주(BBC)
화상
위안부 날조파의 망언에 반론하는 것도 중요하지만, 양공주나 한국군 위안부를 키워드에 바로 정면으로부터 반격 하는 자세도 빠뜨릴 수 없다.
알려지지 않은 양공주의 실상은, 날조 위안부의 장대한 거짓말을 폭로할 가능성을 은밀한이라고 있다.
http://blog.ohmynews.com/q9447/285242
[서평] 세상에서 가장 아름다운 고백...윤미향의 <20>
▲ 세상에서 가장 오래 된 시위, '수요시위'. 그것은 일본군 '위안부'할머니들이 지켜온 20년간의 용기다.
때로 사람들을 성찰하게 한다는 뜻에서 역사는 귀한 스승이다. 그러나 추상적 관념이 아니라 실체로서의 역사를 이해하는 것은 그리 쉬운 일이 아니다. 대신에 우리는 그 역사를 관통한 인물들의 삶을 통해 역사를 추체험할 수 있다. 역사의 질곡을 맨몸으로 겪어낸 사람들, 이들이 겪은 삶은 '일상'을 넘어 '역사'가 되기 때문이다.
한국정신대문제대책협의회(정대협)의 윤미향 상임대표가 쓴 <20>(웅진주니어, 2010)에서는 그런 '역사적 삶'을 고통스럽게 살아온 할머니들을 만날 수 있다. '정신대 할머니'로 흔히 불려 온 이들이 겪어야 했던 한국 현대사. 이 책에서 우리는 역사가 무명의 갑남을녀들에게 어떤 상처를 입히는가를 아프게 확인할 수 있다.
▲ 윤미향, 웅진주니어, 2010
<20>은 지난해 나온 책이다. 지난 9월 18일 방영된 MBC <시사매거진 2580> '20년이 흘렀지만…'을 시청하고 정대협 홈페이지에 접속했다가 나는 이 책의 존재를 처음 알았다. 청소년을 위한 책이라는 걸 알았지만 나는 주저 없이 책을 주문했다. 학교 사서교사에게 이 책을 여러 권 구입해 달라는 것도 빼먹지 않았다.
비가 와도 눈이 와도
병상에 누워 있어도,
일본대사관 앞
수요일 12시
그것은 희망이었습니다.
20년간 지켜온 할머니들의 용기와 희망
위 인용구는 책의 속표지를 넘기면 만나게 되는 구절이다. 이 책은 1992년 첫 시위 이래 20년 동안 계속돼 '세상에서 가장 오래된 시위'라고 불리고 있는 정대협과 '위안부'할머니들의 수요시위를 담고 있다. 이 책에 새겨져 있는 것은 일본군 '위안부'할머니들이 지켜온 아름답고 경이로운 '용기'와 '희망'이다.
그리고 이어지는 지면에는 최갑순 할머니를 비롯한 모두 여덟 분의 할머니들의 초상이 실려 있다. 흑백 사진 속의 할머니들, 무심한 표정을 그저 지켜보는 것만으로도 가슴이 아려 온다. 굵게 패인 주름, 앙다문 입술, 하얗게 센 성긴 머리카락…. 그것은 이 땅의 20세기를 할퀴고 간 가혹한 역사, 아직도 지워지지 않은 흔적이다.
▲ 일본군 '위안부'피해자 할머니들
this picture was taken in 1960' during in korean war,
the left soldier wears UN military jacket and those women put north korean jacket.
この写真は朝鮮戦争時に撮影されました、
左の兵士は国連軍軍服、女性達は北朝鮮の人民服を着てるからです。
▲ 군대 따라 이동하고 있는 일본군 '위안부'들. 이들은 병사들을 따라 다니며 성 노예로 살아야 했다.
1992년 1월 8일 첫 시위 이래 어느덧 1천회를 향해 달려가고 있는 이 역사상 전무후무한 시위는 여전히 청산되지 못한 일제의 전쟁범죄에 대한 '피해자'들의 문제제기다. 그러나 반인륜적 범죄인 '종군 위안부'문제에 대한 진실 규명, 일본의 사죄와 배상을 요구하는 이 시위가 20년째 지속되고 있다는 것은 여전히 문제가 미해결 상태라는 뜻이기도 하다.
지난 20년 동안 매주 수요일 일본 대사관 앞에서 진행돼 온 이 시위의 주축은 물론 일본군 '위안부'할머니들이다. 2차 대전 종전 후 무려 반세기 가까이 역사의 어둠 속에 묻혀 있던 이 끔찍한 진실을 세상 속으로 드러낸 김학순 할머니의 공개증언을 '세상에서 가장 아름다운 고백'이라고 부르는 이유다.
이 끔찍한 역사의 희생자를 부르는 이름이 여러 가지로 나뉘어 있다는 사실은 이 문제가 가진 만만찮은 성격을 드러내준다. 정신대(挺身隊)는 '나라를 위해 몸을 바친다'는 뜻으로, '일제의 인력동원 정책'을 의미하는 낱말이므로 합당한 명칭이 될 수 없다.
또 위안부라는 말도 함부로 쓸 수 없는 이유는 그것이 전쟁 중 일본군의 '성 노예'제도를 의미하는 말이기 때문이다. 결국 '강제 종군 위안부', '일본군 성 노예(Military Sexual Slavery by Japan)'등을 거쳐 합의된 이름이 일본군 '위안부'다. '위안부'는 여전히 부당한 이름이지만 일제에 의해 불렸던 이름이므로 작은따옴표('')로 묶어서 사용하되 범죄 주체인 일본군을 붙여서 일본군 '위안부'라고 쓰게 된 것이다.
▲ 일본군 '위안부'피해자 강덕경 할머니가 그린 그림 '라바울 위안소'
일본군 '위안부'할머니들이 겪은 참혹하고 고통스러운 희생은 비교적 널리 알려져 있다. 뒤늦게 이 비극을 전해 들으면서 사람들은 '고통스런 희생'이라는 글귀로 써내려가지만 할머니들이 살아온 세월과 그로 말미암은 상처를 어찌 말과 글로 다 표현할 수 있겠는가.
공개 증언의 용기가 세상을 바꾸다
▲ 일본군 '위안부'피해자 중 최초로 공개 증언에 나섰던 김학순 할머니. 할머니는 1997년에 세상을 떠났다.
그들은 고국으로 돌아왔지만 자신의 과거에 대한 불안 때문에 고향으로 돌아가지도 못했고 여느 여성들처럼 쉽게 혼인하지도 못했다. 일본군 '위안부'생활을 안 남편으로부터 학대를 당하기도 했고 몸이 망가져 아이를 가질 수도 없는 이도 적지 않았다. 그들은 피해자였지만 그들이 겪은 희생의 성격 때문에 오히려 비난 받았으며 스스로 침묵을 지킬 수밖에 없었던 것이다.
오랜 침묵 끝에 일본의 전쟁범죄를 고발한 할머니들의 수요시위는 20년째 계속되고 있다. 그 동안 234명의 할머니가 피해자 신고를 했고 그 중 많은 분들이 일본의 사죄를 받지 못하고 세상을 떠나 이제 생존자는 80여 분밖에 되지 않는다. 그러나 20년간 계속된 할머니들의 당당한 외침은 사회에 적지 않은 변화를 이끌어냈다.
▲ 강덕경 할머니의 그림 '빼앗긴 순정'
일본 정부는 국제 여론에 떠밀려 일본군 '위안부'제도에 대한 조사에 들어갈 수밖에 없었고, 일부 책임을 인정하기에 이르렀다. 또 '강제성은 없었다'며 자신들의 법적 책임을 부인하다 부분적으로 강제성을 인정했다. 그러나 일본 정부는 '배상금'아닌 '위로금'에 지나지 않는 '국민기금'을 피해자에게 지급하는 형식의 기만책으로 일관하고 있는 실정이다.
오랜 침묵 속에 살다가 뒤늦게 인권에 눈뜬 할머니들의 눈부신 활약은 국제 사회에 엄청난 반향을 불러 일으켰다. 법적 강제력은 없지만 2007년 미국 하원과 유럽의회에서 '일본 정부의 사죄와 법적 배상을 요구하는 결의안'이 채택된 것이다.
정대협과 일본군 '위안부'할머니들의 지치지 않는 끈질긴 싸움은 현실을 바꾸는데 그치지 않고 오랜 고통과 침묵 속에 살아온 할머니 자신들도 변화시켰다. 할머니들은 일본의 더러운 전쟁 범죄를 고발하고 증언하면서 전쟁이 인권 유린의 근원임을 깨달았고, 아주 자연스럽게 역사와 평화에 대한 확고한 신념을 갖게 된 것이다.
'전쟁과 여성인권 박물관'건립 반대는 전근대적 역사의식
할머니들은 더 이상 자신과 같은 희생이 발생하지 않기 위해 전쟁을 멈춰야 한다고 굳게 믿는다. 또한 더 이상 여성들이 수난 당하지 않고 살 수 있는 '평화의 나라'를 위해 그런 역사를 기록해 놓은 박물관이 필요하다고 생각하게 된다. 그리고 2004년, 정대협이 일본군 '위안부'피해자들의 명예와 인권회복, 미래 세대에게 평화로운 세상을 물려주기 위한 '전쟁과 여성인권 박물관'(박물관) 건립 사업을 시작했다.
박물관 건립 사업은 8년 간 모금활동을 펼쳐 17억원을 모으고, 서울시로부터 서대문 독립공원 매점 부지에 100여 평의 땅을 확보하면서 순조롭게 진척되는가 했다. 하지만 박물관 건립은 '독립공원 내 위안부 박물관 건립은 순국선열에 대한 명예훼손'이라는 광복회의 반대에 부딪히게 되면서 원점으로 돌아갔다.
▲ '전쟁과 여성인권 박물관'을 위해 정대협이 매입한 성미산 기슭의 단독주택
이런 일련의 과정이 MBC <시사매거진 2580> '20년이 흘렀지만…'편으로 방영되면서 누리꾼들의 성토가 이어졌다. 그러나 서대문 독립공원 안 박물관은 무산되고 정대협은 모인 돈으로 성미산 기슭의 한 단독주택을 매입하는 쪽으로 방향을 틀었다.
박물관 건립사업이 좌초된 것은 아직도 잔존해 있는 전근대적 가치관을 뛰어넘지 못하는 우리 사회의 한계를 드러낸 일이었다. 사회적 약자로서 여성이 감당해야 했던 희생과 고통을 자신들의 빛나는 무용담의 격을 떨어뜨리는 것으로밖에 이해하지 못하는 우리 사회의 역사의식이 여전히 전근대적이라는 이야기다. 그런 뜻에서 주류 남성들이 만들어온 역사는 비겁하다 못해 치졸하기까지 한 셈이기도 하다.
피해자뿐만 아니라 '가해자'의 역사도 아우르다
지은이 윤미향 상임대표는 아주 쉽고 편하게 대화를 나누듯 조곤조곤 한국 현대사를 청소년들 앞에 펴 보인다. 청소년용으로 펴낸 책이지만 굳이 어른들이 읽지 못할 수준은 결코 아니다. 책에 다양하게 실린 관련 사진과 자료, 할머니들이 손수 그린 그림, 수요시위에 동참한 학생들의 편지글 등도 독자의 이해를 돕는다.
무엇보다 이 책의 미덕은 우리나라를 피해자로서뿐 아니라 현대사를 거치면서 스스로 가해자가 된 역사까지 아우르는 점이다. 지은이는 '전쟁과 여성, 끊임없이 되풀이되는 악연', 즉 전시에 자행되는 전쟁 성폭력의 진실을 깊숙이 들여다본다. 그리고 일본군 '위안부'가 지나간 역사가 아니라 지금도 여전히 존재하는 현실임을 환기하는 것이다.
이른바 제 2의 일본군 '위안부'는 우리 현대사 속에서도 재현되었다. 해방 후 미군 주둔기지 주변에서 공공연하게 이루어진 성매매나 산업화 시기 국가에 의해 암묵적으로 용인된 '기생 관광'이 바로 그것이다. 그리고 무엇보다도 베트남 전쟁에 참전한 한국군에 의해 벌어진 민간인 학살과 강간은 우리 자신이 피해자가 아니라 가해자로 뒤바뀐 역사적 비극이었던 것이다.
지은이는 마지막 장에서 '우리가 만들어 가야 할 미래'를 이야기한다. 남성 중심주의적 가부장적인 생각이 전쟁 중 성폭력을 일으키고 여성을 억압한다. 또 극단적 식민주의가 개인의 희생을 강요하며 여성을 '식민지'화한다고 그는 말한다. 또 일본군 '위안부'할머니들의 끔찍한 희생이 우리에게 가르쳐 준 것은 역사적 진실과 함께 '인권'이야말로 우리가 지키고 보존해야 할 가치라는 것이다.
지난 8월, 헌법재판소는 일본군 '위안부'와 원폭 피해자들의 배상청구권을 두고 한일 양국 사이에 분쟁이 있음에도 정부가 아무런 해결 노력을 하지 않은 것은 위헌이라고 결정했다. 하지만 일본 정부는 일본군 '위안부'문제 청구권에 대해 협의하자고 한 우리 정부의 제안을 거부했다.
▲ 김복선, 황금주 할머니의 젊은 시절. 역사가 이 아름다운 처녀들을 일본군인들의 성 노예로 몰았다.
그러나 일본 정부와는 달리 일본 시민사회에서는 '건강한 반성의 목소리'가 나오고 있다고 한다. 그들은 부끄러운 역사를 넘어 자국의 이익과 명예보다 인권을 선택한 것이다. 가해자로서 우리의 숙제인 베트남 문제는 시민사회를 중심으로 베트남에 학교를 세우거나 평화 활동을 펼치는 것을 통해 해결의 실마리를 찾아가고 있다.
일본군 '위안부'피해자들의 삶을 다룬 다큐 <낮은 목소리>에 출연했던 이용수 할머니가 베트남을 방문해 피해 여성을 만나 그들에게 손을 내밀었다는 이야기는 묘한 감동으로 다가온다. 할머니는 처음에 베트남의 피해 여성을 만나는 것을 부정적으로 생각했다고 한다. 그러나 결국 할머니는 국적을 넘어 자신과 같은 피해자인 베트남 여성을 바라보게 된 것이다.
지은이는 '바르게 생각하고 바르게 알기'를 권하면서 책을 끝맺는다. 그러나 안다는 것만으론 부족하다. '참여하고 관심을 갖는 순간부터 역사는 변화해 갈 것'이라고 말하는 것은 그 때문이다. 추상적 관념으로 우리 현대사를 이해해 온 청소년들은 그녀가 조곤조곤 들려주는 이야기를 들으며 그 추상과 관념을 하나씩 걷어내고 '역사'의 생생한 실체를 만날 수 있을 터이다.
덧붙이는 글 | <20>(윤미향 씀 | 웅진주니어 | 2010.11. | 1만2000원)
책 표지의 날개에는 “이 책의 인세 전부는 ’전쟁과 여성인권 박물관‘ 건립 기금으로 기부됩니다.”라고 쓰여 있다. 앞서 말한 성미산의 단독주택을 마련했지만 박물관을 꾸미려면 6억 원을 성금으로 더 모아야 한다고 한다.
정대협 누리집(http://www.womenandwar.net/index.php)에 가면 10만 원으로 전쟁과 여성인권 박물관 1만인 건립위원으로 참여할 수 있다. 그게 부담스러우면 이 책(12,000원)을 사서 아이들과 함께 읽고 이야기를 나누는 것도 이 사업을 돕는 방법이 되겠다.
내가 구입한 책은 초판 3쇄다. 아직 만 부도 팔리지 않았다는 뜻이겠다. 부끄럽게도 우리보다 먼저 일본 도서관협회가 이 책을 선정도서로 뽑았으니 책의 가치는 입증된 셈이다. 아이들의 ‘몰역사’를 탓하지 말고 스스로 역사와 만나는 방법을 찾게 하는 것도 좋은 공부가 될 터이다.
2011.10.16 13:38 ⓒ 2011 OhmyNews
* 이 기사를 읽고 전교조 경북지부 참교육실천대회 국어분과에서 초청강연회 소식을 전해 왔다.
전교조 경북지부 참실대회 국어분과 초청 강연회
* 주제 : 일본군 위안부 문제 현황과 대책
* 강사 : 윤미향(한국정신대문제대책협의회 대표, <20> 의 저자)
* 날짜 : 2011. 11. 26(토) 14:30-17:30
* 장소 : 구미교육연수원
오는 12월 14일(수)은 일본군 '위안부'할머니들이 한맺힌 수요집회를 시작한 지 1000번째 되는 날입니다. 정대협에서는 일본군 '위안부'문제의 시작부터 지금까지 그 과정과 앞으로 계획에 대하여 더 많은 사람들에게 알려 되겠다는 소명감으로 우리 모임의 요청을 기꺼이 수락해 주었습니다.
그 전에 <20>을 읽어 두시면 더욱 이해에 도움이 될 것입니다.
http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000067635
한국군도 '위안부'운용했다
[창간 2주년 발굴특종 ①] 일본군 종군 경험의 유산
02.02.22 15:16l최종 업데이트 02.02.26 21:51l김당(dangk)
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한국전쟁 기간[1951∼1954년] 3∼4개 중대 규모 운영…연간 최소 20여만 병력 '위안'
흔히 전쟁이 나면 여성들은 남성들에 비해 고통을 한 가지 더 겪는 것이 보통이다. 이는 다름아닌 '성적 유린'인데, 피아 군인을 가릴 것 없이 자행되는 것이 보통이다. 이같은 여성들의 피해사례는 동서고금의 전쟁사 곳곳에 기록돼 있다.
흔히 '위안부'라면 일제하 구 일본군들이 조선(한국)여성들을 강제로 끌고가 중국, 남양군도 등에서 성적 노리개로 부린 것으로만 생각하기 쉽다. 그러나 한국전쟁 당시 한국군도 병사들의 사기진작 차원에서 '위안부'를 운용했다는 주장이 제기돼 충격을 던지고 있다.
당시 서울, 강릉 등지의 군부대에서는 중대단위로 '위안부대'를 편성, 운용했는데 병사들은 '위안 대가'로 티킷이나 현금을 사용한 것으로 드러났다.
<오마이뉴스>는 우리 현대사에서 묻혀진 역사의 진실을 밝힌다는 차원에서 전문학자의 연구결과와 김당 편집위원의 취재를 토대로 4회 정도의 관련기획물을 실을 예정이다.-<편집자 주>
▲ 위안소 앞에 줄지어 선 일본군 병사들. 예비역 장성들의 회고록에 따르면 한국전쟁 당시 국군 장병들도 24인용 야전막사니 분대천막 앞에서 이처럼 줄을 서서 위안대를 이용했다.
한국전쟁 당시 국군이 군 위안소를 두고 위안부 제도를 운영했다는 주장이 학계에서 처음으로 공식 제기되었다. 6·25 전쟁 당시 국군이 위안소를 두고 장병들이 이용케 했다는 주장은 그 동안 몇몇 예비역 장군의 회고록과 참전자들의 증언에 의해서도 뒷받침되어 왔다.
그러나 군 당국이 편찬한 공식기록(전사) 등을 근거로 한국군이 위안대를 설치·운영했다는 주장이 제기된 것은 이번이 처음이다. 또 이를 계기로 당시 위안부 피해자들의 증언과 진상 규명운동이 전개될 경우, 지난 90년대 일본군 종군위안부 문제가 처음 제기된 때와 유사한 파문도 예상된다.
김귀옥 박사(경남대 북한전문대학원 객원교수·사회학)는 2월23일 일본 교토 리츠메이칸(立命館)대학에서 열리는 제5회 '동아시아 평화와 인권 국제심포지움'에서 이런 내용을 담은 '한국전쟁과 여성ː군 위안부와 군 위안소를 중심으로'라는 제목의 논문을 발표한다(관련 인터뷰 기사 송고 예정).
김박사의 논문은 한국군(한국전쟁) 위안부 문제라는 사안의 특성상 일본 언론들과 재일본조선인총련합회(총련)계 언론의 큰 관심을 끌 것으로 보여 귀추가 주목된다.
"사기 앙양과 전투력 손실 방지를 위한 필요악"
현재까지 발굴된 한국전쟁 당시 군 위안부 제도의 실체를 보여주는 유일한 공식자료는 육군본부가 지난 1956년에 편찬한 <후방전사(인사편)>에 실린 군 위안대 관련 기록이다.
김박사는 <후방전사> 기록과 예비역 장성들의 회고록, 그리고 관계자 증언 등을 토대로 당시 국군은 직접 설치한 고정식 위안소와 이동식 위안소 그리고 사창(私娼)의 직업여성들을 이용하는 세 가지 방식으로 위안부 제도를 운영했다고 주장한다. 우선 <후방전사(인사편)>의 '제3장 1절 3항 특수위안활동 사항'기록을 보면 군 위안대 설치 목적은 다음과 같다.
"표면화한 사리(事理)만을 가지고 간단히 국가시책에 역행하는 모순된 활동이라고 단안(斷案)하면 별문제이겠지만 실질적으로 사기앙양은 물론 전쟁사실에 따르는 피할 수 없는 폐단을 미연에 방지할 수 있을 뿐 아니라 장기간 교대 없는 전투로 인하여 후방 내왕(來往)이 없으니만치 이성에 대한 동경에서 야기되는 생리작용으로 인한 성격의 변화 등으로 우울증 및 기타 지장을 초래함을 예방하기 위하여 본(本) 특수위안대를 설치하게 되었다."
당시 군은 위안부들을 '특수위안대(特殊慰安隊)'라는 부대 형식으로 편제해 운영했음을 알 수 있다. <후방전사> 제3장의 '특수위안활동 사항'에는 흔히 '딴따라'라고 부르는 군예대(軍藝隊) 활동도 포함된다.
따라서 '특수위안대'는 군예대를 지칭하는 것이 아니냐는 이론도 있을 수 있다. 그러나 <후방전사>는 군예대의 활동을 '위문 공연(慰問 公演)'이라고 표현하는 반면에 특수위안대의 활동은 '위안(慰安)'이라고 용어를 구분해 사용하고 있다. 결국 여기서 '특수위안'은 여성의 성(性)적 서비스를 뜻함을 어렵지 않게 알 수 있다.
흥미로운 사실은 전사(戰史)에서 위안대 운영이 "국가시책에 역행하는 모순된 활동"임을 인정한 대목이다. 이는 일제시대에 설치된 공창(公娼)이 1948년 2월 미군정청의 공창폐지령 발효로 폐쇄되었음에도 국가를 수호하는 군이 자체적으로 사실상의 공창(군 위안대)을 운영하는 모순된 활동, 즉 범법행위를 자행했음을 의미한다.
따라서 <후방전사>는 군이 한국전쟁 당시 위안부 제도를 전쟁의 장기화에 따른 전투력 손실 방지와 사기 앙양을 위해 불가피한 일종의 '필요악'으로 간주했음을 드러내고 있는 것이다.
결국 한국군 위안대는 그 동원방식이나 운영기간 및 규모 면에서 일본군 종군위안부 제도와 근본적인 차이점이 있음에도 불구하고, 그 설치 목적이나 운영 방식 면에서는 비슷함을 보여준다. 이는 또 당시 한국군 수뇌부의 상당수가 일본군 출신이었음을 감안할 때 시사하는 바 크다. 일본군에서 위안부 제도를 경험한 군 수뇌부가 한국전쟁 기간에 위안부 제도를 주도적으로 도입한 것은 어쩌면 자연스런 경험의 산물이기 때문이다.
그런데 <후방전사>에 따르면 위안대를 설치한 시기는 불분명하다. 다만 "동란(動亂)중 (위안대) 활동상황을 연도별로 보면 큰 차이가 없었으며 전쟁행위와 더불어 불가분의 관계를 가진 것이라고 아니할 수 없다"고 돼 있어 전쟁 이후 설치된 것임을 짐작케 한다.
김귀옥 박사는 관련 자료와 관계자들의 증언을 토대로 설치 시기를 1951년으로 추정한다. 반면에 <후방전사>는 "휴전에 따라 이러한 시설의 설치목적이 해소됨에 이르러 공창(公娼) 폐지의 조류에 순명(順命)하여 단기 4287(서기 1954)년 3월 이를 일제히 폐쇄하였다"고 그 폐쇄 시기를 분명히 밝히고 있다.
서울 강릉 춘천 원주 속초 등 7개소 설치 운영
한편 <후방전사> 기록에 따르면 위안대가 설치된 장소는 △서울지구 3개 소대 △강릉지구 1개 소대 △기타 춘천 원주 속초 등지로 총 7개소에 이른다. 그러나 위안대 규모에 대해서는 <후방전사> 내에서도 앞뒤의 기록이 달라 정확한 그 규모를 산정하기가 어렵다.
이를테면 <후방전사>의 일부 기록(148쪽)에는 위안대 규모가 △서울지구 제1소대 19명 △강릉 제2소대 31명 △제8소대 8명 △강릉 제1소대 21명 등 총 79명으로 돼 있다.
그러나 같은 책의 '특수위안대 실적통계표'(150쪽)에는 위안부 수가 △서울 제1소대 19명 △서울 제2소대 27명 △서울 제3소대 13명 △강릉 제1소대 30명 등 총 89명으로 돼 있다.
따라서 전후 맥락으로 볼 때 전자의 기록은 오기(誤記)이고 후자의 '실적 통계표'가 정확한 것으로 추정된다. 물론 이 통계도 기타(춘천 원주 속초 등지) 지역 위안대는 포함하지 않고 있다. 아무튼 기록을 토대로 당시 위안소 소재지와 규모를 <표>로 정리하면 다음과 같다.
<표 1> 한국군 위안대 설치 장소와 규모
군에 위안대를 설치한 주체가 누구인지는 <후방전사>에서 찾아볼 수 없다. 그러나 군이 위안대 설치 및 운영을 주도한 사실은 <후방전사>의 다음과 같은 대목이나 예비역 장성들의 회고록에서 미루어 짐작할 수 있다.
"일선 부대의 요청에 의하여 출동위안(出動慰安)을 행하며 소재지에서도 출입하는 장병에 대하여 위안행위에 당하였다.(……) 한편 위안부는 1주에 2회 군무관(軍務官)의 협조로 군의관의 엄격한 검진을 받고 성병에 대하여는 철저한 대책을 강구하였다."(<후방전사>)
이는 당시 군이 군인들이 위안소를 찾아와 이용하는 고정식 위안소뿐 아니라 위안대가 위안을 위해 부대를 찾아가는 이동식 위안소도 운영했음을 입증하는 대목이다. 또 군의(軍醫)가 직접 위안부를 상대로 주 1회 성병검진을 실시한 점이나 장교를 상대하는 여성과 병사를 상대하는 여성이 따로 있었다는 점 등은 한국군 위안부 제도가 과거 일본군 종군위안부 운영방식을 그대로 답습했음을 의미한다.
주월(駐越) 한국군 사령관을 지낸 채명신 장군(예비역 육군 중장)은 자신의 회고록 <사선을 넘고넘어>(1994년)에서 <후방전사>의 기록과는 달리 소대 규모가 아닌 중대 규모로 위안대를 운용했다고 적고 있다. 이는 채명신 장군이 서울지구의 3개 소대 위안부 인력을 1개 중대 규모로 계산한 결과일 수 있다. 어쨌건 채장군에 따르면 당시 위안부 규모는 180∼240명으로 추정된다.
"당시 우리 육군은 사기 진작을 위해 60여명을 1개 중대로 하는 위안부대를 서너 개 운용하고 있었다. 때문에 예비부대로 빠지기만 하면 사단 요청에 의해 모든 부대는 위안부대를 이용할 수 있었다. 그러니 5연대도 예외는 아니었고, 예비대로 빠지기도 전부터 장병들의 화제는 모두 위안부대 건이었다."(이하 밑줄은 필자 강조)
▲ <후방전사>에 실려있는 단기 4285년(서기 1952년)의 '특수위안대 실적통계표'. 89명의 위안부가 연간 20여만명의 군인을 '위안'했음을 보여준다.
그렇다면 한국전쟁 기간에 군이 설치한 이 '특수위안대'의 '위안'활동 실적은 얼마나 될까. 그것을 가늠할 수 있는 유일한 근거자료는 바로 <후방전사>(150쪽)에 실린 '특수위안부 실적통계표'이다. 단기 4285년도이니 곧 1952년도 1년간의 '위안'실적이다. 다른 해의 실적도 이와 비슷하다고 기록되어 있다.
아무튼 이 통계표에 따르면, 1952년 당시 '특수위안대'에 편성된 위안부는 89명이고, 이들로부터 '위안'을 받은 군인은 연간 20만명이 넘는 것으로 집계되었다. 다만 이 실적이 실적통계표에 적시한 4곳(서울 제1, 2, 3소대·강릉 제1소대)에 출입한 군인들의 통계인지, 위안대가 현지부대로 '출동위안'한 군인들의 통계까지 포함한 것인지는 불명확하다.
▲ <표 2> 김귀옥 박사가 수정한 1952년 특수위안대 실적통계표
'위안대'는 예비대 병력의 '제5종 보급품'
전선에서 전투를 마치고 후방으로 교대된 예비부대 병력이 위안부를 이용할 수 있었다는 사실은 다른 장군들의 회고록에서도 일치하는 대목이다. 차규헌 장군(예비역 육군 대장) 또한 자신의 회고록 <전투>(1985년)에서 예비대 시절에 겪은 이동식 군 위안소 제도를 이렇게 회상하고 있다.
"(1952년) 3월 중순의 기후는 봄을 시샘할 듯 쌀쌀했다.(……) 잔적을 완전히 소탕한 후 예비대가 되어 부대정비를 실시하고 있을 때 사단 휼병부(恤兵部)로부터 장병을 위문하러 여자위안대가 부대 숙영지 부근에 도착하였다는 통보가 있었다. 중대 인사계 보고에 의하면 이들은 24인용 야전천막에 합판과 우의로 칸막이를 한 야전침실에 수용되었다고 하며 다른 중대병사들은 열을 서면서까지 많이 이용했다고 하였다."
▲ 김희오 장군(예비역 소장)의 회고록 <인간의 향기>. 34년간의 군 생활에서 한국전쟁 당시 처음 본 공개적 군 위안소 운영 사례에 대해 '영원히 찜찜한 기억'으로 기록하고 있다.
한편 김희오 장군(예비역 육군 소장) 또한 '이동식'이긴 하지만 이와는 조금 다른 각도에서 위안부 제도를 기억하고 있다.
김장군은 군에서 직접 위안소를 설치 운영한 것이라기보다는 연대 간부들이 당시 사창가였던 '종3'(종로3가)에서 거금을 주고 위안부로 데려온 것으로 기억한다. 김장군은 자신의 자서전 <인간의 향기>(2000년)에서 그 대목을 이렇게 회고하고 있다.
"(중부전선) 수도고지 전투도 잊혀지고 도망병 발생도 진정되어 갔다. 이제 FTX(야전훈련)에 본격 돌입하기 위해 소화기 및 장비 점검, 보급품 정비 등이 한창 진행되는 어느 날 아침이었다. 연대1과에서 중대별 제5종 보급품(군 보급품은 1∼4종밖에 없었음) 수령지시가 있어 가 보았더니 우리 중대에도 주간 8시간 제한으로 6명의 위안부가 배정되어 왔다.(……) 그러나 나는 백주에 많은 사람이 오가는 가운데 줄을 서서 분대천막을 이용하는 것이라던가 또 도덕적으로나 양심상 어정쩡하기도 해서 썩 내키지가 않았다. 먼저 소대에 2명이 할당되고 그중 1명이 먼저 소대장 천막으로 배정되어 왔다. 나는 출신환경 등 몇 마디 대화만 나누고 별로 도와줄 방법이 없어 그 동안 모아 놓았던 건빵 한 보따리를 싸서 선임하사관에게 인계하였다."
▲ 김희오 장군
두 장군의 증언에 따르면 군 부대에 소위 '제5종 보급품'이라는 이름으로 위안부들이 배정되어 왔고 24인용 야전천막이 위안소로 가설(차규헌 장군)되거나 분대 막사를 위안소로 대용(김희오 장군)하였다.
위안대가 '제5종 보급품'취급을 받은 것은 일본군 종군위안부가 '천황의 하사품'이나 '군수품'으로 취급받은 점과 일맥상통한다. 또 병사들이 줄을 서면서까지 많이 이용한 것이나 소대장 천막으로 먼저 배정된 후에 병사들에게 배정된 점 등도 일본군 종군위안부 피해자들이 증언하는 위안소의 풍경과 닮은꼴이다.
운영 방식은 증언에 따라 조금 다르다. 채명신 장군에 따르면 전선에서의 위안부대 출입은 '티켓제'로 운용토록 하였다. 그런데 아무에게나 티켓이 주어지는 것 아니었다. 전쟁터에서 용감하게 싸워 공을 세운 순서대로 나눠주었다. 또 공훈의 정도에 따라 티켓의 숫자가 달라졌다고 한다. 이는 군인들이 군표나 현금을 주고 이용했던 일본군 위안소와는 차이가 있다.
오히려 이것은 홋카이도나 사할린 지역에 강제 연행한 조선인 노동자와 일본인 노동자들을 상대로 회사에서 마련한 위안시설에서 일한 '산업위안부'제도와 닮은꼴이다. 일본이 저지른 대표적인 전쟁범죄인 종군위안부 문제에 가려 산업위안부 문제는 잘 드러나지 않았다.
그러나 일본 군수기업들은 노동자들에게 일종의 '성과급'으로 위안소를 이용할 수 있는 티켓을 제공하는 등 노동자를 통제하는 데 위안소 제도를 이용한 것으로 드러나고 있다. 결국 이런 사실들을 종합하면 한국전쟁 기간의 군 위안부 제도는 '일본군 종군위안부 제도의 잔재'라는 결론에 도달하게 된다.
"부끄러운 일본군 위안부 제도의 잔재"
그 때문인지 회고록에 군 위안부 제도를 기록한 장군들은 하나같이 위안소 운영의 타당성에 대한 의문과 함께 전쟁의 아픔, 그리고 절대빈곤의 참상을 지적한다.
▲ 한국전쟁 당시 연대장으로 복무한 채명신 장군(주월 한국군사령관)은 "군 위안부 제도는 장병들의 사기 진작과 성병 예방을 위해 도입한 '군부의 치부'이지만 당시 사회에 만연한 사창(私娼)을 군에 흡수해 인권을 보호한 측면도 있다"고 주장했다.
채명신 장군은 자신이 회고록에 기록한 한국전쟁 당시 겪은 군 위안부 제도에 대해 "드러내고 싶지 않은 군부의 치부이지만 움직일 수 없는 사실을 기록한 것"이라고 말했다. 그러면서도 채장군은 당시의 암울한 현실과 시대상황을 예로 들어 불가피성을 역설했다.
"당시는 전쟁이 장기화함에 따라 많은 젊은 여자들이 생계를 위해 미군 부대에서 몸을 팔고 전선 근처에까지 밀려드는 시절이었다. 당연히 사창에는 성병이 만연했고 사창을 방치할 경우 성병으로 인한 전투력 손실도 우려되었다. 따라서 군에서 장병들의 사기 진작과 전투력 손실 예방을 위해서 위안대를 편성해 군의관의 성병검진을 거쳐 장병들이 이용케 한 것이다. 그러나 어찌 보면 (창녀들을 군의 위안대에 흡수함으로써) 당시 사회의 필요악으로서 인권 사각지대에 방치된 많은 사창가 여자들의 인권을 보호한 측면도 있다."
그러나 당시 연대장이었던 채장군은 군 위안부 제도를 기획한 군 수뇌부의 주체가 누구인지에 대해서는 "잘 모르겠다"고 답했다. 또 채장군은 위안대의 규모에 대해서도 "명칭 상으로는 부대(특수위안대)이지만 부대 편제표에 의해 편성된 것이 아니기 때문에 위안부나 사창의 사정(수요공급)에 따라 위안대 규모가 그때그때 달라 정확한 인원을 산출하기가 어려웠을 것이다"고 지적했다.
"소대장님 티킷 한 장 더 얻을 수 없나요?"
....우리 5연대에서는 '위안부대'를 이용하는 데 몇 가지 규칙을 만들었다. 위안부대 출입은 티킷제로 운용토록 하였다. 그런데 아무에게나 티킷이 주어지는 건 아니다. 전쟁터에서 용감하게 싸워 공을 세운 순서대로 나눠준다. 물론 훈장을 받았다면 당연히 우선권이 있어 부러움의 대상이다.
"5연대는 무조건 계급에 관계없이 훈장을 많이 탄 사람부터 순서대로 위안부를 상대할 수 있다."
내가 이런 규칙을 만들자 부대 내에선 한바탕 입씨름이 벌어졌다.
"이제 너희는 모두 내 동생이다. 알았나?"
"잠시만 기다려라. 곧 내가 너희들에게 등정기를 발표할테니…. 기대하시라."
모든 입과 귀가 위안부대로 쏠려 있었다. 용감한 박판도 중사도 규정대로 두 장의 티킷을 받게 되었고, 첫 번째로 위안소에 가게 되었다.
난 당시 연대장이었으니 이 얘긴 후일 대대장을 통해 전해 들었다. 그런데 박중사는 숫총각이라 위안부 상대하는 것을 완강히 거부했다 한다. 그리곤 티킷도 다른 전우에게 주려 하는 걸 규칙이라 안된다며, 분대원들이 억지로 떠메곤 위안부대의 천막 속에다 집어넣었다 한다.
모든 분대원들은 천막 안을 들여다보면서 역사적 사태(?)를 지켜보았는데, 아뿔싸 순진한 박판도 총각은 여자가 바지를 벗기려 하자 "싫다"며 도망가질 않나, 억지로 벗기곤 강행하려 하자 결사적으로 피하질 않나, 밖에서 지켜보는 분대원들에게 한바탕 웃음만 안겨주고 있었다.
그러나 워낙 좁은 곳이라 결국은 여자한테 붙잡혔는데 상대가 숫총각이란 걸 안 여자가 장난삼아 그의 물건을 만지면서 "애걔, 요만한 걸 가지고 왔어?"하며 놀리자, 끝끝내 그는 총(?) 한방 못쏴보고 얼굴만 빨개가지곤 도망쳐 나왔다는 거였다.
분대원들은 자신의 분대장에게 치욕의 여름(夏)을 남기지 않으려, 그날 밤 철저한 강의와 사례를 들려주어 결국 박판도 중사를 설득시켰다. 다음날 재시도 끝에 박판도 중사는 결국 성공한다.
그런데 문제는 다음부터다. 한번 위안부대를 다녀온 박중사가 완전히 맛을 들인 것이다.
"저…, 소대장님. 저…, 티킷 한 장 더 얻을 수 없나요?"
이 지경까지 되어 내게 보고가 올라오니 난 웃음을 터뜨리지 않을 수 없었다.
"허, 그놈 참. 그래 대대장이 알아서 두어 장 더 집어줘…. 하하하…."
그때부터 난 왠지 마음에 걸렸다. 순진한 녀석이 전투만 알다가 어느날 갑자기 인생의 어떤 새로운 면을 알게 되었다면….
<채명신 회고록 '사선을 넘고 넘어'> (267~269쪽에서 인용)
육군본부의 공식기록인 <후방전사>의 '특수위안대 실적통계표'(1952년)에 따르더라도 당시 위안대를 이용한 장병은 적게 잡아도 연간 20만명을 넘는다. 또 "위안대를 이용할 수 있는 예비대로 빠지기도 전부터 장병들의 화제는 모두 위안부대 건이었다"는 채장군의 증언에서 보듯, 당시 한국전쟁에 참전했던 모든 군인들은 군이 설치·운용한 '특수위안대'의 존재를 알고 있었다.
바로 그 '공공연한 비밀'이 50년만에 뒤늦게 불거진 것은, 이 드러내고 싶지 않은 군부의 치부가 일본군 위안부 제도의 찌꺼기이기 때문인지도 모른다.
물론 한국군 위안대는 동원방식이나 기간 그리고 규모 등에서 일본군 종군위안부 제도와 본질적인 차이점이 있다. 그러나 상당 부분 일본군 종군위안부 제도와 유사한 방식으로 운용된 것 또한 사실이다(아래 <표 3> 참조).
<표 3> 일본군·한국군 위안부 제도의 유사점과 차이점
우선 사기 앙양과 전투력 손실 예방을 내세운 설치 목적부터가 유사하다. 또 병사들이 군대천막 앞에서 줄을 서서 이용하고 군의관이 성병검진을 하는 이용·관리 풍경도 흡사하다. 또 일본군의 군표 대신에 티켓과 같은 대가가 지불된 거래형식으로 운용되기도 했다.
이는 목격자들의 증언으로도 뒷받침된다. 한국전쟁 당시 이 희한한 제도를 처음 겪은 김희오 장군은 처음 위안대를 목격한 순간에 직감적으로 "이는 과거 일본군 내 종군 경험이 있는 일부 간부들이 부하 사기앙양을 위한 발상에서 비롯된 것이구나"하는 생각이 들었다고 한다. 그래서 김장군은 34년간 군 생활에서 처음 본 공개적인 군 위안소 운영 사례에 대해 그 당위성을 떠나 영원히 찜찜한 기억으로 각인되어 있다고 기억한다.
이 '찜찜한 기억'은 바로 8·15 해방과 48년 정부 수립 이후 초기 국가 및 군부 형성에 깊은 영향을 준 친일파 청산문제와 맞닿아 있는 것이다. 이를테면 합참의장은 1대 이형근 의장부터 14대 노재현 의장까지, 육군 참모총장은 1대 이응준 총장부터 21대 이세호 총장에 이르기까지 일제 군경력자들이 독식했다는 점을 미루어볼 때, 한국전쟁 당시 위안부 문제는 미청산된 친일파 문제와 직결되어 있음을 직감할 수 있는 것이다.
김귀옥 박사는 "한국전쟁 군 위안부 문제는 일본군 위안부 제도의 불행한 자식이라고 할 수 있다"면서 "이 문제도 (일본군 위안부 문제처럼) 피해 여성과 사회 단체 그리고 학계가 연대하여 풀어내야 할 우리의 과거 청산 문제의 하나"임을 강조했다.
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베트남전 때도 '위안대'운용 계획"
한국군도 '위안부'운용했다 ③ - 김귀옥 박사 인터뷰
href="mailto:dangk@ohmynews.com">김당 기자 dangk@ohmynews.com
▲
김귀옥 박사는 "냉전·친일파가 그 원조인 우리나라 우익이 스스로 반성하지 않는 한 일본 우익을 반성시킬 수는 없다"고
주장한다.
1950년 6월25일에 발발한 한국전쟁 당시 한국군이 군의 사기 진작을 위해
위안소를 설치하고 3∼4개 중대 규모로 위안대를 운영했다는 사실은 한국전에 참전했던 군인들이라면 다 아는 '공공연한 비밀'이었다.
그러나 이 '공공연한 비밀'은 2월22일 <오마이뉴스>에 처음 보도되기까지 지난 50년 동안 남자들의 군 시절
무용담이나 술자리에서나 운위될 뿐 한번도 공론화되지 못했다.
한국군의 어두운 과거를 담은 이 공공연한 비밀은 학계에서도 '금단의
영역'이었다. 그러나 구(舊) 일본군 위안부의 존재에 대해 근대사 연구가 눈을 돌리게 된 것이 냉전체제가 붕괴된 이 10여 년 사이의 일임을
감안하면, 한국군 위안부의 존재에 대한 뒤늦은 관심은 그리 놀랄 만한 일도 아니다. 더욱이 오랜 분단 상황과 군부 독재정권 하에서 군의 치부를
드러내는 것은 종종 '이적행위'로 간주되었다.
한국군의 이 부끄러운 치부를 처음 '공론의 장'으로 끌어낸 이는 여성 사회학자인
김귀옥 박사(경남대 북한전문대학원 객원교수·사회학)다. 김 박사는 한국전쟁 당시 월남한 사람들의 역사적 경험과 정체성을 연구하기 위해 지난
1996년 월남인 정착촌(속초시 청호동 아바이마을 등)에 들어가 현지 조사활동을 벌이다가 한국전쟁 당시 군이 운영한 위안소와 위안부가 있었다는
'충격적인 사실'을 처음 접했다.
이산(離散)과 폭력 같은 전쟁과 분단이 야기한 문제들을 사회학적으로 연구해온 김 박사는 지난
수년간 한국군 위안부라는 민감한 문제에 접근할 수 있는 단서들에 조심스럽게 접근해오면서 그 동안 그 실체가 전혀 공개되지 않았던 북파공작원과
민간인 납치(납남)에 관한 역사적 사실을 월간 <말>지와 <민족 21> 등에 기고해 주목을 끈 바 있다.
젠더(gender) 관점의 평화 연구자로서 늘 적극적으로 현실에 참여하는 김 박사를 만나 '한국군 위안부'라는 민감한 주제를
연구하게 된 저간의 사정을 들어보았다.
▲
부시 미국 대통령이 방한중인 지난 2월20일 서울 세종로 미 대사관 앞에서 '평화를 만드는 여성회'의 상징인 '평화의 비둘기'를 들고 1인
시위중인 김귀옥 박사.
"북파공작원들 '위안부'도
현지조달"
- 한국군이 위안대를 설치·운영한 사실을 언제 어떤 계기로 처음 알게
되었나.
"1996년 11월 속초에서 월남민 인터뷰를 하던 중에 이 문제를 처음 접했다. 1950년 10월 유엔군에 체포된 이
월남민은 당시 민간인인데도 인민군으로 분류되어 거제도(포로수용소)로 이송될 때까지 포로로서 미군부대를 따라다니며 취사와 빨래를 했다. 그런데 이
월남민에 따르면 당시 부대에는 이남 말씨를 쓰는 위안대 여자들이 있었다고 했다. 이는 점령지(이북)에서 끌고 온 여자들이 아니라는 얘기였다. 즉
미군과 국군이 50년 10월 휴전선을 돌파할 때 이미 여자들을 끌고 갔다는 얘기였다."
- 그것은
한국군이 아니라 미군 부대가 위안대를 운용한 얘기 아닌가.
"바로 그 얘기가 출발이 되어 한국군 위안부 문제에 관심을 갖게
되었는데 그와 관련된 기록을 1956년 육군본부가 편찬한 <후방전사>에서 발견했다. 사람들의 입 소문이나 기억의 소산이 아니라 군이
'특수위안대'라는 이름으로 위안소를 설치해 운영했다는 확실한 근거 기록을 찾게 된 것이다."
- 관련
기록을 찾은 뒤로는 어떤 과정을 거쳐 이 문제에 접근했는가.
"그 뒤로 군 관계자들을 만날 때면 이 기록의 진위 문제나 위안부
운용이 어느 정도 보편적인 것이었는지를 물어 확인하고 예비역 장성들의 회고록에 관련 기록이 있는지를 검토했다. 또 다른 위안대의 형태는
북파공작원과 위안부 여성의 만남이었다. 한국전쟁 기간 북파공작원이었던 사람들을 인터뷰한 가운데, 원산 앞바다의 섬에서 첩보·공작활동을 하면서
북한 지역에 침투해 여성들을 납치하면 십중팔구는 강간을 하거나 여자들은 섬으로 끌고 와 위안부 역할을 하게 했다는 사실을 알게 되었다."
- 그것은 HID 첩보부대의 일부에 국한된 얘기 아닌가.
"내가 만난
북파공작원들은 원산 앞 바다 섬을 몇 개 전전했는데 이런 위안부들이 그 섬마다 다 있었다고 증언했다. 원래 게릴라부대는 보급품을 현지 조달하게
돼 있지만 이들은 북한 여성까지 현지에서 (보급품으로) 조달했다는 얘기다. 나는 이런 현상이 증언자의 부대에만 있었다고 보지 않는다."
- 위안부 피해자의 증언도 청취했는가.
"구체적인 증언을 청취하지는 못했다. 그
중에는 1951년 당시 16살에 북파공작원들에게 납치되어 위안부 생활을 강요당하고 아이 둘까지 낳은 할머니(1936년생)를 수소문해 어렵게
찾았는데 '전쟁 때 아이 낳고 고생하며 산 것밖에 없다'며 더는 할 얘기가 없다고 했다. 이 할머니는 당시 친구들과 4명이서 여맹(女盟) 회의를
하다가 한밤중에 북파공작원들에게 납치되어 위안부 생활을 강요당한 피해자임에도 말해서는 안 되는 비밀을 갖고 있는 것처럼 살고 있다."
▲일본에서
열린 제5회 '동아시아 평화와 인권'국제심포지엄에 발표한 김귀옥 박사의 한국군 위안부 관련 논문을 보도한 <아사히신문> 2월24일자
기사.
- 군이 위안소를 설치·운영한 시대적 배경은
무엇이라고 보는가.
"1950년 전쟁 중에 많은 여성들이 강간과 겁탈을 당했다. 그런데 51년 여름이 되면 전선이 교착된다.
그러니까 50년에는 앞서의 유엔군 민간인 포로가 말한 것처럼, 여자들이 비정규적인 형태로 군부대를 따라다니며 낮에는 빨래하고 밤에는 군인을
위안하는 그런 형태로 운용되었는데 51년 여름 전선이 교착되자 군 스스로 위안부 제도를 효과적으로 운영할 수 있는 체계를 만들 필요성을 가졌던
것으로 보인다. 즉 50년에는 전쟁이라는 이름으로 수많은 여성들에 대한 강간과 납치 그리고 강제된 위안부 생활이 가능했다면, 51년에는 전선이
고착되어 후방의 지루한 전쟁이 계속되면서 주기적으로 전선에서 후방으로 교체되는 장병들에게 뭔가 유인책이 필요했던
것이다."
- 한국전쟁 당시 위안부 제도를 도입한 것은 일본군에 복무한 경력이 있는 한국군 수뇌부가
일본군 위안부 제도를 경험한 것과 상관관계가 있다고 보는가.
"예비역 장군들의 증언에 따르면, 밀접한 상관관계가 있는 것으로
보인다. 즉 한국전쟁 당시 군의 골간이었던 일본군·관동군 출신 장교들에 의해서 군 위안대가 창설되었다는 추정이다. 이것은 51년 당시 육군본부
휼병부(恤兵部)를 누가 주도했는지를 파악하면 훨씬 더 진전된 답을 얻을 수 있을 것으로 보인다."
"강간·납치에 의한 위안부도
있었을 것 추정"
- 군 위안부 제도의 도입을 기획한 주체가 누구인지는 드러나지
않는가.
"육군본부의 공식기록인 <후방전사>에는 위안부 제도를 도입한 주체가 누구인지 밝히고 있지 않다. 그러나
여러 정황과 장군들의 증언으로 볼 때 일본군·관동군 출신으로 추정하는 데 무리가 없다. 그리고 육군이 위안소를 운영했다는 것은, 그 당시에
작전지휘권을 유엔군(미군) 사령관이 갖고 있었기 때문에 위안소 설치·운영에 관한 건도 유엔군(미군) 사령관이 최종 승인했거나 적어도 묵인했을
것이라는 가설을 뒷받침한다."
- 미군이 한국군에 대한 작전지휘권을 가진 것과 후방지역에서 한국군이
위안소를 운영하는 것은 별개라고 보는데.
"왜 위안부 제도의 미군 승인 문제를 꺼내냐면 베트남 전쟁 때 한국군이 위안대를
운영하려고 계획을 했는데 미군의 반대로 무산된 경험이 있었기 때문이다. 주월 한국군 사령관을 지낸 채명신 장군이 그렇게 증언을 했다. 월남전
때도 한국군이 사기 진작을 위해 위안부 운영을 계획했는데 미군이 동의하지 않아 운영하지 못했다는 것이다. 결국 한국전쟁 때도 작전지휘권을 갖고
있던 미군의 승인까지는 아니더라도 적어도 위안부 설치·운영에 관한 보고는 했을 거라고 생각한다."
-
한국전쟁 당시 군은 위안소를 어떤 방식으로 운영했나.
"크게 보면 육군본부에서 관할한 고정식 위안소과 이동식 위안소 그리고
비정규적인 위안부의 세 가지 형태이다. <후방전사>에 보면 육군은 서울에 3곳, 강릉에 3곳, 그리고 속초·원주·춘천 등 총 9곳에
고정식 위안소를 설치해 위안부를 붙박이로 두고 운영했다. 그리고 필요시에, 이를테면 전방에서 준후방지역으로 빠져나온 부대가 위안부를 요청하면
위안부 여성들을 거기로 보냈다. 일종의 이동식이다. 제3의 형태는, 일부 장군들의 기억에 따르면, 각 사단이나 연대 단위에서 사창의 여자들을
데려와 위안부로 이용하고 사단 휼병부나 연대 인사처에서 돈을 지급하는 비정규적인 임시 위안소이다. 비정규는 부대 사정에 따라 자체적으로 위안부를
이용한 것이지만 정규 위안소와 공통점은 개인(군인)이 아닌 군(부대)이 비용을 지급했다는 점이다. 그런데 비정규적인 형태로 운영한 위안부가
정규적으로 운용한 위안부보다 더 많았을 것이라는 것이 하나의 가설이다."
- 한국전쟁 당시 고정식
위안소의 설치 장소는 어디이며 그 규모는 어느 정도인가.
"서울에 세 군데가 있었는데 가장 규모가 큰 곳이 충무로 4가
148번지에 소재한 위안소였다. 대한극장 앞인데 현재 행정구역으로는 광희동이다. 물론 지금은 흔적을 찾을 수 없다. 이 번지수의 건물은
1988년 서울올림픽을 앞두고 86∼88년 무렵에 철거가 되어 지금은 기종빌딩으로 바뀌었다. 흥미로운 사실은 이 자리에 있었던 낡고 허름한
건물을 사람들이 '해병대아파트'라고 기억하고 있다는 점이다. 그런데 광희동 토박이 조사를 통해 확인해 보았지만, 사람들은 왜 해병대아파트라고
불렀는지는 아무도 모르고 있다."
- 그곳이 민간인의 출입을 금지한 '군 전용 위안소'라는 근거가
있는가.
"민간인들이 출입할 수 없는 '군 전용 위안소'라는 것은 <후방전사>에도 나온다. 또 군의관이 성병 관련
정기검진을 했다. 그리고 그 성격을 공창으로 파악했던 것은 틀림없는 사실이다. 왜냐하면 <후방전사>는 위안소 폐쇄 배경을 '공창이
없어지는 시대 조류에 따라서 없앤다'고 기록하고 있기 때문이다. 다시 말해 그것이 공창이다, 또는 아니다가 중요한 것이 아니라 국가(군)가
운영한 것을 육군이 인정한 사실이 중요한 것이다."
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style="FONT-WEIGHT: normal; FONT-SIZE: 9pt; COLOR: #8c8f70; FONT-FAMILY: verdana,굴림체; TEXT-DECORATION: none">▲김귀옥
박사가 <민족 21>(2001년 9월호)에 쓴 '속초 세 할머니가 겪은 6·25 전쟁'에 관한 글과 사진. 이산(離散)과 폭력 등
전쟁과 분단이 야기한 문제를 사회학적으로 접근하는 글을 발표해 주목을 끌고
있다.
- 그렇다면 군은 언제부터 언제까지 위안소를
운영했으며 위안부들은 어디에서 충원했나.
"위안소를 설치한 시점은 51년 여름으로 추정되고 폐지 시점은 54년 3월로 명시되어
있다. 이들이 어디서 어떻게 충원되어 왔는지는 언급이 없다. 따라서 이것을 밝히는 것이 큰 숙제 중의 하나다. 그러나 일부 예비역 장군들이
기억하듯이 '종3 여자'(사창)만으로 충원한 것은 아니었다고 본다. 왜냐하면 속초 같은 데도 전시(戰時)에 사창이 있었는데 사창 여자들과 위안소
여자들은 구분되어 있었기 때문이다."
- 그 근거는 무엇인가.
"해방 이후 공창이나
유곽의 여성은 약 2천여 명 정도였다. 그런데 이런 여성들이 48년 말에 2만여 명으로 늘어났다가 전쟁이 끝나고 50년대 중반이 되면 30여만
명으로 늘어난다. 이런 통계를 보면 당시 사창 여자들만으로 군 위안소를 충원하기는 불가능했을 것으로 보인다. 상당한 인원은 여염집 여자들로
끌어들였을 것이다. 여기에는 가난과 빈곤 때문에 흘러들어온 사람도 있지만 일부는 강간과 납치에 의한 경우도 있었을 것으로 추정된다. 왜냐하면
내가 만난 한 여성은 자기가 군부대에 잡혀 있을 때 그 부대에 이미 그런 여성들이 있었다고 증언하고 있기 때문이다."
"한국
우익이 반성해야 일본 우익을 반성시킬 수 있다"
- 한국군 위안부 문제에 관한 논문을 이번에
일본에서 열린 제5회 '동아시아 평화와 인권 심포지움'(2월22∼25일)에서 발표하게 된 특별한 배경이 있는가.
"지난
2000년 학술단체협의회가 주최한 한국전쟁 관련 학술행사의 종합토론회에서 아직까지 현대사에서 풀어내지 못한 과제의 하나로 한국군이 운영한
위안소가 있었다는 사실을 공개적인 자리에서 처음 얘기했다. 그래서 그때 그 자리에 있었던 몇몇 신문기자들이 내게 구체적으로 얘기를 해달라고
했는데 그 규모나 실태를 아직 조사중이어서 지금은 얘기할 수가 없다고 했다. 그러다 그해 겨울에 북파공작원에 대한 글을 발표한 적이 있는데
거기에 위안부 얘기가 약간 들어 있었다. 그런데 한국전 연구자인 후지메 유키 교수(일본 오사카 외대)가 이 글을 보고는 제5회 동아시아 평화
인권 대회에서 이것을 주제로 글을 발표하면 좋겠다고 공개적으로 추천하는 바람에 고민 끝에 결국 글을 발표하기로 결심을
했다."
- 한국군 위안부라는 민감한 주제의 논문을 일본에서 처음으로 발표할 경우 이 논문을 일본
우익이 악용함으로써 그렇지 않아도 아직 미해결 상태로 남아 있는 일본군 위안부 문제 해결의 장애요인으로 작용할 가능성도 예상할 수 있는데 그에
대한 소신이나 반론이 있으면 얘기해 달라.
"물론 그에 대한 고민은 여러 번 했다. 당연히 걱정하게 되는 것은 구 일본군
위안부 문제도 아직 매듭짓지 못한 상황에서 일본 우익들이 이를 악용할 가능성이다. 그래서 사실 이 문제를 96년에 처음 접했으면서도 공론화하지
않고 시간을 끌었던 측면이 있다. 그러나 이에 대한 생각은 확고하다. 일본 우익도 문제지만 우리나라 우익도 그에 못지 않게 문제라는 것이다.
지난해 일본 역사교과서 왜곡 파동에서 드러났지만, 냉전 친일파가 그 원조인 우리나라 우익이 스스로 반성하지 않는 한 일본 우익을 반성시킬 수는
없다고 본다. 그래서 이른바 국익을 앞세워 이를 미뤄둘 것이 아니라, 군이 작성한 공식문건이 있는 한 얘기를 해야 한다고 생각했다. 우리의 역사
청산을 제대로 함으로써 일본 우익의 관점을 바꿔내고 국가적 차원에서의 사과도 받아낼 수 있다는 생각이 이 글을 쓰고 발표한
배경이다."
- 왜곡된 과거사 청산 차원에서 한국군 위안부 문제 진상규명을 위해 정부와 군 그리고
민간에 바라는 바가 있다면 그것이 무엇인가.
"군은 국가를 위해서 목숨까지 바치는데 여자들이 그 까짓쯤이야, 이렇게 생각할지도
모른다. 그것은 국가 차원에서 위안부를 동원한 것은 아니라고 발뺌하는 일본 정부의 논리나 다를 바 없다. 그러나 군이 어두운 과거사를 밝히는
것은 치부를 드러내는 것이라기보다는 오히려 군이 새롭게 태어날 수 있는 기회를 제공하는 것으로 인식할 필요가 있다. 따라서 군이 적극적으로 나서
당시 자료를 공개하고, 진상을 밝히는 것이 바람직하다. 그리고 제2의 김학순 할머니(일본군 위안부 증언자) 같은 분이 나와서 증언을 해준다면
더할 나위 없이 큰 힘이 될 것이다."
comfort women for Korean army
163146 洋公主(米軍&韓国軍従軍慰安婦)のつづき pinknohat 2013/09/22 713 2
敵軍兵を捕らえて娼婦に仕立てるのだ。ジュネーブ条約を持ち出して議論している場合ではない。南鮮で流布される捏造慰安婦の“悲劇”よりも醜悪。完全にアウトだ。
洋公主の物語は、慰安婦捏造ストーリーの元ネタであることは確実だが、歴史の表舞台に突然登場した時期も極めて近い。80年代、南鮮で反米・反軍政ムードが高まる中、基地村の問題が浮上した。
▼基地村闊歩する米兵と洋公主95年(東亜日報)
画像
親北左派の連中が、反米闘争の新テーマとして提起したのである。その過程で90年代初頭、挺身隊を意図的に歪曲した“従軍慰安婦”がクローズアップされる。
その流れか、我が国の左派系組織やフェミ系団体が基地村問題を指摘するケースも目立つ。韓国軍慰安婦の公的資料を発掘したのも、南鮮のフェミニスト女性学者だった。
【語り始めた基地村の洋公主】
「固定式慰安所-特殊慰安隊」
そうした記述が、1956年に韓国陸軍本部が編纂した公文書『後方戦史(人事編)』に残っていた。実績統計として、4ヵ所89人の慰安婦が1年間で20万回以上の“慰安”を行なったと記されている。
参照:朝日新聞アーカイブ『朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度 韓国の研究者発表』
河野洋平の顔面に叩き付けたくなるような資料だが、加瀬英明氏によると約10年前、研究発表に慌てた南鮮政府は、国防部資料室の韓国軍慰安婦資料を閲覧禁止にしたという。
▼置屋前に並ぶ洋公主(LIFE誌)
画像
確かに青瓦台にとって致命的な歴史資料。特に陸軍将校だった朴正煕の娘は言い逃れできない。しかし資料を隠蔽しても「洋公主」の存在は、NJ州のマラソン主催者が受け答えたように一般に知られている…
南鮮国内に米兵向け慰安婦がウヨウヨいたことを知りながら我が国を罵倒する精神構造は異常だ。日本時代の慰安婦が「20世紀最大の人権侵害」で、洋公主については「ノーコメント」など許されない。
▼物色中の米兵と洋公主(LIFE誌)
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捏造慰安婦が第三国の地方都市でスパークする一方、洋公主は歴史の陰でひっそりした印象だ。
実在の洋公主は、海外巡業に励むこともなく、実名で告発を始めたのも最近である。
▼昨年7月邦訳版出版『基地村の女たち』
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自称慰安婦が適当なウソを並べるのと違い、まだ証言も少なく資料は封印…学術的な研究も滞りがちだ。
しかし、証拠写真どころか活動中の映像まで残っている。反日陣営を攻撃する恰好の歴史事実だ。
しかも洋公主の相手は朝鮮戦争・ベトナム戦争世代に遡る米兵だ。グレンデールなどでやりたい放題の在米朝鮮 人 に鉄槌を下し、米国務省を怯ませることも出来る。
▼米兵と戯れる洋公主(BBC)
画像
慰安婦捏造派の妄言に反論することも重要だが、洋公主や韓国軍慰安婦をキーワードに真正面から反撃する姿勢も欠かせない。
知られざる洋公主の実像は、捏造慰安婦の壮大なウソを暴く可能性を秘めている。
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적군병을 잡고 창녀로 키운다.제네바 조약을 꺼내 논의하고 있을 때는 아니다.남선으로 유포되는 날조 위안부의“비극”보다 추악.완전하게 아웃이다.
양공주의 이야기는, 위안부 날조 스토리의 원재료인 것은 확실이지만, 역사의 정식 무대에 돌연 등장했던 시기도 지극히 가깝다.80년대, 남선으로 반미·반군정무드가 높아지는 중, 기지마을의 문제가 부상했다.
▼기지마을 활보 하는 미국 병사와 양공주 95년(동아일보)
화상
친북 좌파의 무리가, 반미 투쟁의 신테마로서 제기했던 것이다.그 과정에서 90년대 초두, 정신대를 의도적으로 왜곡한“종군위안부”가 클로즈 업 된다.
그 흐름인가, 우리 나라의 좌파계 조직이나 페미계 단체가 기지마을 문제를 지적하는 케이스도 눈에 띈다.한국군 위안부의 공적 자료를 발굴했던 것도, 남선의 feminist 여성학자였다.
【말하기 시작한 기지마을의 양공주】
「고정식 위안소-특수 위안대」
그러한 기술이,1956년에 한국 육군 본부가 편찬 한 공문서 「후방 전사(인사편)」에 남아 있었다.실적 통계로서4개소 89명의 위안부가 1년간에 20만회 이상의“위안”을 행했다고 기록되고 있다.
참조:아사히 신문 어카이브(archive) 「한국 전쟁시의 한국군에게도 위안부 제도 한국의 연구자 발표」
코노 요헤이의 안면에 내던지고 싶어지는 자료이지만, 카세 히데아키씨에 의하면 약 10년전, 연구 발표에 당황한 남선정부는, 국방부 자료실의 한국군 위안부 자료를 열람 금지로 했다고 한다.
▼치 가게앞에 줄선 양공주(LIFE잡지)
화상
확실히 청와대에 있어서 치명적인 역사 자료.특히육군 장교였던 박정희의 딸(아가씨)는 발뺌해 할 수 없다.그러나자료를 은폐 해도 「양공주」의 존재는, NJ주의 마라톤 주최자가 대답같게일반적으로 알려져 있다…
남선국내에 미국 병사를 위한 위안부가 우요우요 있던 것을 알면서 우리 나라를 매도하는 정신 구조는 비정상이다.일본 시대의 위안부가 「20 세기 최대의 인권침해」로, 양공주에 대해서는 「노 코멘트」등 용서되지 않는다.
▼물색중의 미국 병사와 양공주(LIFE잡지)
화상
날조 위안부가 제3국의 지방도시로 스파크 하는 한편, 양공주는 역사의 그늘에서 고요히 한 인상이다.
실재의 양공주는, 해외 순회공연에 힘쓸 것도 없고, 실명으로 고발을 시작했던 것도 최근이다.
▼작년 7월 국역판 출판 「기지마을의 여자들」
화상
자칭 위안부가 적당한 거짓말을 늘어놓는 것과 달라, 아직 증언도 적게 자료는 봉인…학술적인 연구도 막히기 쉽상이다.
그러나, 증거 사진은 커녕 활동중의 영상까지 남아 있다.반일 진영을 공격하는 모양의 역사 사실이다.
게다가양공주의 상대는 한국 전쟁·베트남 전쟁 세대에 거슬러 올라가는 미국 병사다.그렌데이르등에서 제멋대로의 재미 조선인에 철퇴를 내려, 미국무성을 기가 죽게 할 수도 있다.
▼미국 병사와 노는 양공주(BBC)
화상
위안부 날조파의 망언에 반론하는 것도 중요하지만, 양공주나 한국군 위안부를 키워드에 바로 정면으로부터 반격 하는 자세도 빠뜨릴 수 없다.
알려지지 않은 양공주의 실상은, 날조 위안부의 장대한 거짓말을 폭로할 가능성을 은밀한이라고 있다.
http://blog.ohmynews.com/q9447/285242
▲ 세상에서 가장 오래 된 시위, '수요시위'. 그것은 일본군 '위안부'할머니들이 지켜온 20년간의 용기다.
때로 사람들을 성찰하게 한다는 뜻에서 역사는 귀한 스승이다. 그러나 추상적 관념이 아니라 실체로서의 역사를 이해하는 것은 그리 쉬운 일이 아니다. 대신에 우리는 그 역사를 관통한 인물들의 삶을 통해 역사를 추체험할 수 있다. 역사의 질곡을 맨몸으로 겪어낸 사람들, 이들이 겪은 삶은 '일상'을 넘어 '역사'가 되기 때문이다.
한국정신대문제대책협의회(정대협)의 윤미향 상임대표가 쓴 <20>(웅진주니어, 2010)에서는 그런 '역사적 삶'을 고통스럽게 살아온 할머니들을 만날 수 있다. '정신대 할머니'로 흔히 불려 온 이들이 겪어야 했던 한국 현대사. 이 책에서 우리는 역사가 무명의 갑남을녀들에게 어떤 상처를 입히는가를 아프게 확인할 수 있다.
▲ 윤미향, 웅진주니어, 2010
<20>은 지난해 나온 책이다. 지난 9월 18일 방영된 MBC <시사매거진 2580> '20년이 흘렀지만…'을 시청하고 정대협 홈페이지에 접속했다가 나는 이 책의 존재를 처음 알았다. 청소년을 위한 책이라는 걸 알았지만 나는 주저 없이 책을 주문했다. 학교 사서교사에게 이 책을 여러 권 구입해 달라는 것도 빼먹지 않았다.
비가 와도 눈이 와도
병상에 누워 있어도,
일본대사관 앞
수요일 12시
그것은 희망이었습니다.
20년간 지켜온 할머니들의 용기와 희망
위 인용구는 책의 속표지를 넘기면 만나게 되는 구절이다. 이 책은 1992년 첫 시위 이래 20년 동안 계속돼 '세상에서 가장 오래된 시위'라고 불리고 있는 정대협과 '위안부'할머니들의 수요시위를 담고 있다. 이 책에 새겨져 있는 것은 일본군 '위안부'할머니들이 지켜온 아름답고 경이로운 '용기'와 '희망'이다.
그리고 이어지는 지면에는 최갑순 할머니를 비롯한 모두 여덟 분의 할머니들의 초상이 실려 있다. 흑백 사진 속의 할머니들, 무심한 표정을 그저 지켜보는 것만으로도 가슴이 아려 온다. 굵게 패인 주름, 앙다문 입술, 하얗게 센 성긴 머리카락…. 그것은 이 땅의 20세기를 할퀴고 간 가혹한 역사, 아직도 지워지지 않은 흔적이다.
▲ 일본군 '위안부'피해자 할머니들
the left soldier wears UN military jacket and those women put north korean jacket.
この写真は朝鮮戦争時に撮影されました、
左の兵士は国連軍軍服、女性達は北朝鮮の人民服を着てるからです。
▲ 군대 따라 이동하고 있는 일본군 '위안부'들. 이들은 병사들을 따라 다니며 성 노예로 살아야 했다.
1992년 1월 8일 첫 시위 이래 어느덧 1천회를 향해 달려가고 있는 이 역사상 전무후무한 시위는 여전히 청산되지 못한 일제의 전쟁범죄에 대한 '피해자'들의 문제제기다. 그러나 반인륜적 범죄인 '종군 위안부'문제에 대한 진실 규명, 일본의 사죄와 배상을 요구하는 이 시위가 20년째 지속되고 있다는 것은 여전히 문제가 미해결 상태라는 뜻이기도 하다.
지난 20년 동안 매주 수요일 일본 대사관 앞에서 진행돼 온 이 시위의 주축은 물론 일본군 '위안부'할머니들이다. 2차 대전 종전 후 무려 반세기 가까이 역사의 어둠 속에 묻혀 있던 이 끔찍한 진실을 세상 속으로 드러낸 김학순 할머니의 공개증언을 '세상에서 가장 아름다운 고백'이라고 부르는 이유다.
이 끔찍한 역사의 희생자를 부르는 이름이 여러 가지로 나뉘어 있다는 사실은 이 문제가 가진 만만찮은 성격을 드러내준다. 정신대(挺身隊)는 '나라를 위해 몸을 바친다'는 뜻으로, '일제의 인력동원 정책'을 의미하는 낱말이므로 합당한 명칭이 될 수 없다.
또 위안부라는 말도 함부로 쓸 수 없는 이유는 그것이 전쟁 중 일본군의 '성 노예'제도를 의미하는 말이기 때문이다. 결국 '강제 종군 위안부', '일본군 성 노예(Military Sexual Slavery by Japan)'등을 거쳐 합의된 이름이 일본군 '위안부'다. '위안부'는 여전히 부당한 이름이지만 일제에 의해 불렸던 이름이므로 작은따옴표('')로 묶어서 사용하되 범죄 주체인 일본군을 붙여서 일본군 '위안부'라고 쓰게 된 것이다.
▲ 일본군 '위안부'피해자 강덕경 할머니가 그린 그림 '라바울 위안소'
일본군 '위안부'할머니들이 겪은 참혹하고 고통스러운 희생은 비교적 널리 알려져 있다. 뒤늦게 이 비극을 전해 들으면서 사람들은 '고통스런 희생'이라는 글귀로 써내려가지만 할머니들이 살아온 세월과 그로 말미암은 상처를 어찌 말과 글로 다 표현할 수 있겠는가.
공개 증언의 용기가 세상을 바꾸다
▲ 일본군 '위안부'피해자 중 최초로 공개 증언에 나섰던 김학순 할머니. 할머니는 1997년에 세상을 떠났다.
그들은 고국으로 돌아왔지만 자신의 과거에 대한 불안 때문에 고향으로 돌아가지도 못했고 여느 여성들처럼 쉽게 혼인하지도 못했다. 일본군 '위안부'생활을 안 남편으로부터 학대를 당하기도 했고 몸이 망가져 아이를 가질 수도 없는 이도 적지 않았다. 그들은 피해자였지만 그들이 겪은 희생의 성격 때문에 오히려 비난 받았으며 스스로 침묵을 지킬 수밖에 없었던 것이다.
오랜 침묵 끝에 일본의 전쟁범죄를 고발한 할머니들의 수요시위는 20년째 계속되고 있다. 그 동안 234명의 할머니가 피해자 신고를 했고 그 중 많은 분들이 일본의 사죄를 받지 못하고 세상을 떠나 이제 생존자는 80여 분밖에 되지 않는다. 그러나 20년간 계속된 할머니들의 당당한 외침은 사회에 적지 않은 변화를 이끌어냈다.
▲ 강덕경 할머니의 그림 '빼앗긴 순정'
일본 정부는 국제 여론에 떠밀려 일본군 '위안부'제도에 대한 조사에 들어갈 수밖에 없었고, 일부 책임을 인정하기에 이르렀다. 또 '강제성은 없었다'며 자신들의 법적 책임을 부인하다 부분적으로 강제성을 인정했다. 그러나 일본 정부는 '배상금'아닌 '위로금'에 지나지 않는 '국민기금'을 피해자에게 지급하는 형식의 기만책으로 일관하고 있는 실정이다.
오랜 침묵 속에 살다가 뒤늦게 인권에 눈뜬 할머니들의 눈부신 활약은 국제 사회에 엄청난 반향을 불러 일으켰다. 법적 강제력은 없지만 2007년 미국 하원과 유럽의회에서 '일본 정부의 사죄와 법적 배상을 요구하는 결의안'이 채택된 것이다.
정대협과 일본군 '위안부'할머니들의 지치지 않는 끈질긴 싸움은 현실을 바꾸는데 그치지 않고 오랜 고통과 침묵 속에 살아온 할머니 자신들도 변화시켰다. 할머니들은 일본의 더러운 전쟁 범죄를 고발하고 증언하면서 전쟁이 인권 유린의 근원임을 깨달았고, 아주 자연스럽게 역사와 평화에 대한 확고한 신념을 갖게 된 것이다.
'전쟁과 여성인권 박물관'건립 반대는 전근대적 역사의식
할머니들은 더 이상 자신과 같은 희생이 발생하지 않기 위해 전쟁을 멈춰야 한다고 굳게 믿는다. 또한 더 이상 여성들이 수난 당하지 않고 살 수 있는 '평화의 나라'를 위해 그런 역사를 기록해 놓은 박물관이 필요하다고 생각하게 된다. 그리고 2004년, 정대협이 일본군 '위안부'피해자들의 명예와 인권회복, 미래 세대에게 평화로운 세상을 물려주기 위한 '전쟁과 여성인권 박물관'(박물관) 건립 사업을 시작했다.
박물관 건립 사업은 8년 간 모금활동을 펼쳐 17억원을 모으고, 서울시로부터 서대문 독립공원 매점 부지에 100여 평의 땅을 확보하면서 순조롭게 진척되는가 했다. 하지만 박물관 건립은 '독립공원 내 위안부 박물관 건립은 순국선열에 대한 명예훼손'이라는 광복회의 반대에 부딪히게 되면서 원점으로 돌아갔다.
▲ '전쟁과 여성인권 박물관'을 위해 정대협이 매입한 성미산 기슭의 단독주택
이런 일련의 과정이 MBC <시사매거진 2580> '20년이 흘렀지만…'편으로 방영되면서 누리꾼들의 성토가 이어졌다. 그러나 서대문 독립공원 안 박물관은 무산되고 정대협은 모인 돈으로 성미산 기슭의 한 단독주택을 매입하는 쪽으로 방향을 틀었다.
박물관 건립사업이 좌초된 것은 아직도 잔존해 있는 전근대적 가치관을 뛰어넘지 못하는 우리 사회의 한계를 드러낸 일이었다. 사회적 약자로서 여성이 감당해야 했던 희생과 고통을 자신들의 빛나는 무용담의 격을 떨어뜨리는 것으로밖에 이해하지 못하는 우리 사회의 역사의식이 여전히 전근대적이라는 이야기다. 그런 뜻에서 주류 남성들이 만들어온 역사는 비겁하다 못해 치졸하기까지 한 셈이기도 하다.
피해자뿐만 아니라 '가해자'의 역사도 아우르다
지은이 윤미향 상임대표는 아주 쉽고 편하게 대화를 나누듯 조곤조곤 한국 현대사를 청소년들 앞에 펴 보인다. 청소년용으로 펴낸 책이지만 굳이 어른들이 읽지 못할 수준은 결코 아니다. 책에 다양하게 실린 관련 사진과 자료, 할머니들이 손수 그린 그림, 수요시위에 동참한 학생들의 편지글 등도 독자의 이해를 돕는다.
무엇보다 이 책의 미덕은 우리나라를 피해자로서뿐 아니라 현대사를 거치면서 스스로 가해자가 된 역사까지 아우르는 점이다. 지은이는 '전쟁과 여성, 끊임없이 되풀이되는 악연', 즉 전시에 자행되는 전쟁 성폭력의 진실을 깊숙이 들여다본다. 그리고 일본군 '위안부'가 지나간 역사가 아니라 지금도 여전히 존재하는 현실임을 환기하는 것이다.
이른바 제 2의 일본군 '위안부'는 우리 현대사 속에서도 재현되었다. 해방 후 미군 주둔기지 주변에서 공공연하게 이루어진 성매매나 산업화 시기 국가에 의해 암묵적으로 용인된 '기생 관광'이 바로 그것이다. 그리고 무엇보다도 베트남 전쟁에 참전한 한국군에 의해 벌어진 민간인 학살과 강간은 우리 자신이 피해자가 아니라 가해자로 뒤바뀐 역사적 비극이었던 것이다.
지은이는 마지막 장에서 '우리가 만들어 가야 할 미래'를 이야기한다. 남성 중심주의적 가부장적인 생각이 전쟁 중 성폭력을 일으키고 여성을 억압한다. 또 극단적 식민주의가 개인의 희생을 강요하며 여성을 '식민지'화한다고 그는 말한다. 또 일본군 '위안부'할머니들의 끔찍한 희생이 우리에게 가르쳐 준 것은 역사적 진실과 함께 '인권'이야말로 우리가 지키고 보존해야 할 가치라는 것이다.
지난 8월, 헌법재판소는 일본군 '위안부'와 원폭 피해자들의 배상청구권을 두고 한일 양국 사이에 분쟁이 있음에도 정부가 아무런 해결 노력을 하지 않은 것은 위헌이라고 결정했다. 하지만 일본 정부는 일본군 '위안부'문제 청구권에 대해 협의하자고 한 우리 정부의 제안을 거부했다.
▲ 김복선, 황금주 할머니의 젊은 시절. 역사가 이 아름다운 처녀들을 일본군인들의 성 노예로 몰았다.
그러나 일본 정부와는 달리 일본 시민사회에서는 '건강한 반성의 목소리'가 나오고 있다고 한다. 그들은 부끄러운 역사를 넘어 자국의 이익과 명예보다 인권을 선택한 것이다. 가해자로서 우리의 숙제인 베트남 문제는 시민사회를 중심으로 베트남에 학교를 세우거나 평화 활동을 펼치는 것을 통해 해결의 실마리를 찾아가고 있다.
일본군 '위안부'피해자들의 삶을 다룬 다큐 <낮은 목소리>에 출연했던 이용수 할머니가 베트남을 방문해 피해 여성을 만나 그들에게 손을 내밀었다는 이야기는 묘한 감동으로 다가온다. 할머니는 처음에 베트남의 피해 여성을 만나는 것을 부정적으로 생각했다고 한다. 그러나 결국 할머니는 국적을 넘어 자신과 같은 피해자인 베트남 여성을 바라보게 된 것이다.
지은이는 '바르게 생각하고 바르게 알기'를 권하면서 책을 끝맺는다. 그러나 안다는 것만으론 부족하다. '참여하고 관심을 갖는 순간부터 역사는 변화해 갈 것'이라고 말하는 것은 그 때문이다. 추상적 관념으로 우리 현대사를 이해해 온 청소년들은 그녀가 조곤조곤 들려주는 이야기를 들으며 그 추상과 관념을 하나씩 걷어내고 '역사'의 생생한 실체를 만날 수 있을 터이다.
덧붙이는 글 | <20>(윤미향 씀 | 웅진주니어 | 2010.11. | 1만2000원)
책 표지의 날개에는 “이 책의 인세 전부는 ’전쟁과 여성인권 박물관‘ 건립 기금으로 기부됩니다.”라고 쓰여 있다. 앞서 말한 성미산의 단독주택을 마련했지만 박물관을 꾸미려면 6억 원을 성금으로 더 모아야 한다고 한다.
정대협 누리집(http://www.womenandwar.net/index.php)에 가면 10만 원으로 전쟁과 여성인권 박물관 1만인 건립위원으로 참여할 수 있다. 그게 부담스러우면 이 책(12,000원)을 사서 아이들과 함께 읽고 이야기를 나누는 것도 이 사업을 돕는 방법이 되겠다.
내가 구입한 책은 초판 3쇄다. 아직 만 부도 팔리지 않았다는 뜻이겠다. 부끄럽게도 우리보다 먼저 일본 도서관협회가 이 책을 선정도서로 뽑았으니 책의 가치는 입증된 셈이다. 아이들의 ‘몰역사’를 탓하지 말고 스스로 역사와 만나는 방법을 찾게 하는 것도 좋은 공부가 될 터이다.
2011.10.16 13:38 ⓒ 2011 OhmyNews
* 이 기사를 읽고 전교조 경북지부 참교육실천대회 국어분과에서 초청강연회 소식을 전해 왔다.
전교조 경북지부 참실대회 국어분과 초청 강연회
* 주제 : 일본군 위안부 문제 현황과 대책
* 강사 : 윤미향(한국정신대문제대책협의회 대표, <20> 의 저자)
* 날짜 : 2011. 11. 26(토) 14:30-17:30
* 장소 : 구미교육연수원
오는 12월 14일(수)은 일본군 '위안부'할머니들이 한맺힌 수요집회를 시작한 지 1000번째 되는 날입니다. 정대협에서는 일본군 '위안부'문제의 시작부터 지금까지 그 과정과 앞으로 계획에 대하여 더 많은 사람들에게 알려 되겠다는 소명감으로 우리 모임의 요청을 기꺼이 수락해 주었습니다.
그 전에 <20>을 읽어 두시면 더욱 이해에 도움이 될 것입니다.
http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0000067635
한국군도 '위안부'운용했다
[창간 2주년 발굴특종 ①] 일본군 종군 경험의 유산
02.02.22 15:16l최종 업데이트 02.02.26 21:51l김당(dangk)
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한국전쟁 기간[1951∼1954년] 3∼4개 중대 규모 운영…연간 최소 20여만 병력 '위안'
흔히 전쟁이 나면 여성들은 남성들에 비해 고통을 한 가지 더 겪는 것이 보통이다. 이는 다름아닌 '성적 유린'인데, 피아 군인을 가릴 것 없이 자행되는 것이 보통이다. 이같은 여성들의 피해사례는 동서고금의 전쟁사 곳곳에 기록돼 있다.
흔히 '위안부'라면 일제하 구 일본군들이 조선(한국)여성들을 강제로 끌고가 중국, 남양군도 등에서 성적 노리개로 부린 것으로만 생각하기 쉽다. 그러나 한국전쟁 당시 한국군도 병사들의 사기진작 차원에서 '위안부'를 운용했다는 주장이 제기돼 충격을 던지고 있다.
당시 서울, 강릉 등지의 군부대에서는 중대단위로 '위안부대'를 편성, 운용했는데 병사들은 '위안 대가'로 티킷이나 현금을 사용한 것으로 드러났다.
<오마이뉴스>는 우리 현대사에서 묻혀진 역사의 진실을 밝힌다는 차원에서 전문학자의 연구결과와 김당 편집위원의 취재를 토대로 4회 정도의 관련기획물을 실을 예정이다.-<편집자 주>
▲ 위안소 앞에 줄지어 선 일본군 병사들. 예비역 장성들의 회고록에 따르면 한국전쟁 당시 국군 장병들도 24인용 야전막사니 분대천막 앞에서 이처럼 줄을 서서 위안대를 이용했다.
한국전쟁 당시 국군이 군 위안소를 두고 위안부 제도를 운영했다는 주장이 학계에서 처음으로 공식 제기되었다. 6·25 전쟁 당시 국군이 위안소를 두고 장병들이 이용케 했다는 주장은 그 동안 몇몇 예비역 장군의 회고록과 참전자들의 증언에 의해서도 뒷받침되어 왔다.
그러나 군 당국이 편찬한 공식기록(전사) 등을 근거로 한국군이 위안대를 설치·운영했다는 주장이 제기된 것은 이번이 처음이다. 또 이를 계기로 당시 위안부 피해자들의 증언과 진상 규명운동이 전개될 경우, 지난 90년대 일본군 종군위안부 문제가 처음 제기된 때와 유사한 파문도 예상된다.
김귀옥 박사(경남대 북한전문대학원 객원교수·사회학)는 2월23일 일본 교토 리츠메이칸(立命館)대학에서 열리는 제5회 '동아시아 평화와 인권 국제심포지움'에서 이런 내용을 담은 '한국전쟁과 여성ː군 위안부와 군 위안소를 중심으로'라는 제목의 논문을 발표한다(관련 인터뷰 기사 송고 예정).
김박사의 논문은 한국군(한국전쟁) 위안부 문제라는 사안의 특성상 일본 언론들과 재일본조선인총련합회(총련)계 언론의 큰 관심을 끌 것으로 보여 귀추가 주목된다.
"사기 앙양과 전투력 손실 방지를 위한 필요악"
현재까지 발굴된 한국전쟁 당시 군 위안부 제도의 실체를 보여주는 유일한 공식자료는 육군본부가 지난 1956년에 편찬한 <후방전사(인사편)>에 실린 군 위안대 관련 기록이다.
김박사는 <후방전사> 기록과 예비역 장성들의 회고록, 그리고 관계자 증언 등을 토대로 당시 국군은 직접 설치한 고정식 위안소와 이동식 위안소 그리고 사창(私娼)의 직업여성들을 이용하는 세 가지 방식으로 위안부 제도를 운영했다고 주장한다. 우선 <후방전사(인사편)>의 '제3장 1절 3항 특수위안활동 사항'기록을 보면 군 위안대 설치 목적은 다음과 같다.
"표면화한 사리(事理)만을 가지고 간단히 국가시책에 역행하는 모순된 활동이라고 단안(斷案)하면 별문제이겠지만 실질적으로 사기앙양은 물론 전쟁사실에 따르는 피할 수 없는 폐단을 미연에 방지할 수 있을 뿐 아니라 장기간 교대 없는 전투로 인하여 후방 내왕(來往)이 없으니만치 이성에 대한 동경에서 야기되는 생리작용으로 인한 성격의 변화 등으로 우울증 및 기타 지장을 초래함을 예방하기 위하여 본(本) 특수위안대를 설치하게 되었다."
당시 군은 위안부들을 '특수위안대(特殊慰安隊)'라는 부대 형식으로 편제해 운영했음을 알 수 있다. <후방전사> 제3장의 '특수위안활동 사항'에는 흔히 '딴따라'라고 부르는 군예대(軍藝隊) 활동도 포함된다.
따라서 '특수위안대'는 군예대를 지칭하는 것이 아니냐는 이론도 있을 수 있다. 그러나 <후방전사>는 군예대의 활동을 '위문 공연(慰問 公演)'이라고 표현하는 반면에 특수위안대의 활동은 '위안(慰安)'이라고 용어를 구분해 사용하고 있다. 결국 여기서 '특수위안'은 여성의 성(性)적 서비스를 뜻함을 어렵지 않게 알 수 있다.
흥미로운 사실은 전사(戰史)에서 위안대 운영이 "국가시책에 역행하는 모순된 활동"임을 인정한 대목이다. 이는 일제시대에 설치된 공창(公娼)이 1948년 2월 미군정청의 공창폐지령 발효로 폐쇄되었음에도 국가를 수호하는 군이 자체적으로 사실상의 공창(군 위안대)을 운영하는 모순된 활동, 즉 범법행위를 자행했음을 의미한다.
따라서 <후방전사>는 군이 한국전쟁 당시 위안부 제도를 전쟁의 장기화에 따른 전투력 손실 방지와 사기 앙양을 위해 불가피한 일종의 '필요악'으로 간주했음을 드러내고 있는 것이다.
결국 한국군 위안대는 그 동원방식이나 운영기간 및 규모 면에서 일본군 종군위안부 제도와 근본적인 차이점이 있음에도 불구하고, 그 설치 목적이나 운영 방식 면에서는 비슷함을 보여준다. 이는 또 당시 한국군 수뇌부의 상당수가 일본군 출신이었음을 감안할 때 시사하는 바 크다. 일본군에서 위안부 제도를 경험한 군 수뇌부가 한국전쟁 기간에 위안부 제도를 주도적으로 도입한 것은 어쩌면 자연스런 경험의 산물이기 때문이다.
그런데 <후방전사>에 따르면 위안대를 설치한 시기는 불분명하다. 다만 "동란(動亂)중 (위안대) 활동상황을 연도별로 보면 큰 차이가 없었으며 전쟁행위와 더불어 불가분의 관계를 가진 것이라고 아니할 수 없다"고 돼 있어 전쟁 이후 설치된 것임을 짐작케 한다.
김귀옥 박사는 관련 자료와 관계자들의 증언을 토대로 설치 시기를 1951년으로 추정한다. 반면에 <후방전사>는 "휴전에 따라 이러한 시설의 설치목적이 해소됨에 이르러 공창(公娼) 폐지의 조류에 순명(順命)하여 단기 4287(서기 1954)년 3월 이를 일제히 폐쇄하였다"고 그 폐쇄 시기를 분명히 밝히고 있다.
서울 강릉 춘천 원주 속초 등 7개소 설치 운영
한편 <후방전사> 기록에 따르면 위안대가 설치된 장소는 △서울지구 3개 소대 △강릉지구 1개 소대 △기타 춘천 원주 속초 등지로 총 7개소에 이른다. 그러나 위안대 규모에 대해서는 <후방전사> 내에서도 앞뒤의 기록이 달라 정확한 그 규모를 산정하기가 어렵다.
이를테면 <후방전사>의 일부 기록(148쪽)에는 위안대 규모가 △서울지구 제1소대 19명 △강릉 제2소대 31명 △제8소대 8명 △강릉 제1소대 21명 등 총 79명으로 돼 있다.
그러나 같은 책의 '특수위안대 실적통계표'(150쪽)에는 위안부 수가 △서울 제1소대 19명 △서울 제2소대 27명 △서울 제3소대 13명 △강릉 제1소대 30명 등 총 89명으로 돼 있다.
따라서 전후 맥락으로 볼 때 전자의 기록은 오기(誤記)이고 후자의 '실적 통계표'가 정확한 것으로 추정된다. 물론 이 통계도 기타(춘천 원주 속초 등지) 지역 위안대는 포함하지 않고 있다. 아무튼 기록을 토대로 당시 위안소 소재지와 규모를 <표>로 정리하면 다음과 같다.
<표 1> 한국군 위안대 설치 장소와 규모
군에 위안대를 설치한 주체가 누구인지는 <후방전사>에서 찾아볼 수 없다. 그러나 군이 위안대 설치 및 운영을 주도한 사실은 <후방전사>의 다음과 같은 대목이나 예비역 장성들의 회고록에서 미루어 짐작할 수 있다.
"일선 부대의 요청에 의하여 출동위안(出動慰安)을 행하며 소재지에서도 출입하는 장병에 대하여 위안행위에 당하였다.(……) 한편 위안부는 1주에 2회 군무관(軍務官)의 협조로 군의관의 엄격한 검진을 받고 성병에 대하여는 철저한 대책을 강구하였다."(<후방전사>)
이는 당시 군이 군인들이 위안소를 찾아와 이용하는 고정식 위안소뿐 아니라 위안대가 위안을 위해 부대를 찾아가는 이동식 위안소도 운영했음을 입증하는 대목이다. 또 군의(軍醫)가 직접 위안부를 상대로 주 1회 성병검진을 실시한 점이나 장교를 상대하는 여성과 병사를 상대하는 여성이 따로 있었다는 점 등은 한국군 위안부 제도가 과거 일본군 종군위안부 운영방식을 그대로 답습했음을 의미한다.
주월(駐越) 한국군 사령관을 지낸 채명신 장군(예비역 육군 중장)은 자신의 회고록 <사선을 넘고넘어>(1994년)에서 <후방전사>의 기록과는 달리 소대 규모가 아닌 중대 규모로 위안대를 운용했다고 적고 있다. 이는 채명신 장군이 서울지구의 3개 소대 위안부 인력을 1개 중대 규모로 계산한 결과일 수 있다. 어쨌건 채장군에 따르면 당시 위안부 규모는 180∼240명으로 추정된다.
"당시 우리 육군은 사기 진작을 위해 60여명을 1개 중대로 하는 위안부대를 서너 개 운용하고 있었다. 때문에 예비부대로 빠지기만 하면 사단 요청에 의해 모든 부대는 위안부대를 이용할 수 있었다. 그러니 5연대도 예외는 아니었고, 예비대로 빠지기도 전부터 장병들의 화제는 모두 위안부대 건이었다."(이하 밑줄은 필자 강조)
▲ <후방전사>에 실려있는 단기 4285년(서기 1952년)의 '특수위안대 실적통계표'. 89명의 위안부가 연간 20여만명의 군인을 '위안'했음을 보여준다.
그렇다면 한국전쟁 기간에 군이 설치한 이 '특수위안대'의 '위안'활동 실적은 얼마나 될까. 그것을 가늠할 수 있는 유일한 근거자료는 바로 <후방전사>(150쪽)에 실린 '특수위안부 실적통계표'이다. 단기 4285년도이니 곧 1952년도 1년간의 '위안'실적이다. 다른 해의 실적도 이와 비슷하다고 기록되어 있다.
아무튼 이 통계표에 따르면, 1952년 당시 '특수위안대'에 편성된 위안부는 89명이고, 이들로부터 '위안'을 받은 군인은 연간 20만명이 넘는 것으로 집계되었다. 다만 이 실적이 실적통계표에 적시한 4곳(서울 제1, 2, 3소대·강릉 제1소대)에 출입한 군인들의 통계인지, 위안대가 현지부대로 '출동위안'한 군인들의 통계까지 포함한 것인지는 불명확하다.
▲ <표 2> 김귀옥 박사가 수정한 1952년 특수위안대 실적통계표
'위안대'는 예비대 병력의 '제5종 보급품'
전선에서 전투를 마치고 후방으로 교대된 예비부대 병력이 위안부를 이용할 수 있었다는 사실은 다른 장군들의 회고록에서도 일치하는 대목이다. 차규헌 장군(예비역 육군 대장) 또한 자신의 회고록 <전투>(1985년)에서 예비대 시절에 겪은 이동식 군 위안소 제도를 이렇게 회상하고 있다.
"(1952년) 3월 중순의 기후는 봄을 시샘할 듯 쌀쌀했다.(……) 잔적을 완전히 소탕한 후 예비대가 되어 부대정비를 실시하고 있을 때 사단 휼병부(恤兵部)로부터 장병을 위문하러 여자위안대가 부대 숙영지 부근에 도착하였다는 통보가 있었다. 중대 인사계 보고에 의하면 이들은 24인용 야전천막에 합판과 우의로 칸막이를 한 야전침실에 수용되었다고 하며 다른 중대병사들은 열을 서면서까지 많이 이용했다고 하였다."
▲ 김희오 장군(예비역 소장)의 회고록 <인간의 향기>. 34년간의 군 생활에서 한국전쟁 당시 처음 본 공개적 군 위안소 운영 사례에 대해 '영원히 찜찜한 기억'으로 기록하고 있다.
한편 김희오 장군(예비역 육군 소장) 또한 '이동식'이긴 하지만 이와는 조금 다른 각도에서 위안부 제도를 기억하고 있다.
김장군은 군에서 직접 위안소를 설치 운영한 것이라기보다는 연대 간부들이 당시 사창가였던 '종3'(종로3가)에서 거금을 주고 위안부로 데려온 것으로 기억한다. 김장군은 자신의 자서전 <인간의 향기>(2000년)에서 그 대목을 이렇게 회고하고 있다.
"(중부전선) 수도고지 전투도 잊혀지고 도망병 발생도 진정되어 갔다. 이제 FTX(야전훈련)에 본격 돌입하기 위해 소화기 및 장비 점검, 보급품 정비 등이 한창 진행되는 어느 날 아침이었다. 연대1과에서 중대별 제5종 보급품(군 보급품은 1∼4종밖에 없었음) 수령지시가 있어 가 보았더니 우리 중대에도 주간 8시간 제한으로 6명의 위안부가 배정되어 왔다.(……) 그러나 나는 백주에 많은 사람이 오가는 가운데 줄을 서서 분대천막을 이용하는 것이라던가 또 도덕적으로나 양심상 어정쩡하기도 해서 썩 내키지가 않았다. 먼저 소대에 2명이 할당되고 그중 1명이 먼저 소대장 천막으로 배정되어 왔다. 나는 출신환경 등 몇 마디 대화만 나누고 별로 도와줄 방법이 없어 그 동안 모아 놓았던 건빵 한 보따리를 싸서 선임하사관에게 인계하였다."
▲ 김희오 장군
두 장군의 증언에 따르면 군 부대에 소위 '제5종 보급품'이라는 이름으로 위안부들이 배정되어 왔고 24인용 야전천막이 위안소로 가설(차규헌 장군)되거나 분대 막사를 위안소로 대용(김희오 장군)하였다.
위안대가 '제5종 보급품'취급을 받은 것은 일본군 종군위안부가 '천황의 하사품'이나 '군수품'으로 취급받은 점과 일맥상통한다. 또 병사들이 줄을 서면서까지 많이 이용한 것이나 소대장 천막으로 먼저 배정된 후에 병사들에게 배정된 점 등도 일본군 종군위안부 피해자들이 증언하는 위안소의 풍경과 닮은꼴이다.
운영 방식은 증언에 따라 조금 다르다. 채명신 장군에 따르면 전선에서의 위안부대 출입은 '티켓제'로 운용토록 하였다. 그런데 아무에게나 티켓이 주어지는 것 아니었다. 전쟁터에서 용감하게 싸워 공을 세운 순서대로 나눠주었다. 또 공훈의 정도에 따라 티켓의 숫자가 달라졌다고 한다. 이는 군인들이 군표나 현금을 주고 이용했던 일본군 위안소와는 차이가 있다.
오히려 이것은 홋카이도나 사할린 지역에 강제 연행한 조선인 노동자와 일본인 노동자들을 상대로 회사에서 마련한 위안시설에서 일한 '산업위안부'제도와 닮은꼴이다. 일본이 저지른 대표적인 전쟁범죄인 종군위안부 문제에 가려 산업위안부 문제는 잘 드러나지 않았다.
그러나 일본 군수기업들은 노동자들에게 일종의 '성과급'으로 위안소를 이용할 수 있는 티켓을 제공하는 등 노동자를 통제하는 데 위안소 제도를 이용한 것으로 드러나고 있다. 결국 이런 사실들을 종합하면 한국전쟁 기간의 군 위안부 제도는 '일본군 종군위안부 제도의 잔재'라는 결론에 도달하게 된다.
"부끄러운 일본군 위안부 제도의 잔재"
그 때문인지 회고록에 군 위안부 제도를 기록한 장군들은 하나같이 위안소 운영의 타당성에 대한 의문과 함께 전쟁의 아픔, 그리고 절대빈곤의 참상을 지적한다.
▲ 한국전쟁 당시 연대장으로 복무한 채명신 장군(주월 한국군사령관)은 "군 위안부 제도는 장병들의 사기 진작과 성병 예방을 위해 도입한 '군부의 치부'이지만 당시 사회에 만연한 사창(私娼)을 군에 흡수해 인권을 보호한 측면도 있다"고 주장했다.
채명신 장군은 자신이 회고록에 기록한 한국전쟁 당시 겪은 군 위안부 제도에 대해 "드러내고 싶지 않은 군부의 치부이지만 움직일 수 없는 사실을 기록한 것"이라고 말했다. 그러면서도 채장군은 당시의 암울한 현실과 시대상황을 예로 들어 불가피성을 역설했다.
"당시는 전쟁이 장기화함에 따라 많은 젊은 여자들이 생계를 위해 미군 부대에서 몸을 팔고 전선 근처에까지 밀려드는 시절이었다. 당연히 사창에는 성병이 만연했고 사창을 방치할 경우 성병으로 인한 전투력 손실도 우려되었다. 따라서 군에서 장병들의 사기 진작과 전투력 손실 예방을 위해서 위안대를 편성해 군의관의 성병검진을 거쳐 장병들이 이용케 한 것이다. 그러나 어찌 보면 (창녀들을 군의 위안대에 흡수함으로써) 당시 사회의 필요악으로서 인권 사각지대에 방치된 많은 사창가 여자들의 인권을 보호한 측면도 있다."
그러나 당시 연대장이었던 채장군은 군 위안부 제도를 기획한 군 수뇌부의 주체가 누구인지에 대해서는 "잘 모르겠다"고 답했다. 또 채장군은 위안대의 규모에 대해서도 "명칭 상으로는 부대(특수위안대)이지만 부대 편제표에 의해 편성된 것이 아니기 때문에 위안부나 사창의 사정(수요공급)에 따라 위안대 규모가 그때그때 달라 정확한 인원을 산출하기가 어려웠을 것이다"고 지적했다.
"소대장님 티킷 한 장 더 얻을 수 없나요?"
....우리 5연대에서는 '위안부대'를 이용하는 데 몇 가지 규칙을 만들었다. 위안부대 출입은 티킷제로 운용토록 하였다. 그런데 아무에게나 티킷이 주어지는 건 아니다. 전쟁터에서 용감하게 싸워 공을 세운 순서대로 나눠준다. 물론 훈장을 받았다면 당연히 우선권이 있어 부러움의 대상이다.
"5연대는 무조건 계급에 관계없이 훈장을 많이 탄 사람부터 순서대로 위안부를 상대할 수 있다."
내가 이런 규칙을 만들자 부대 내에선 한바탕 입씨름이 벌어졌다.
"이제 너희는 모두 내 동생이다. 알았나?"
"잠시만 기다려라. 곧 내가 너희들에게 등정기를 발표할테니…. 기대하시라."
모든 입과 귀가 위안부대로 쏠려 있었다. 용감한 박판도 중사도 규정대로 두 장의 티킷을 받게 되었고, 첫 번째로 위안소에 가게 되었다.
난 당시 연대장이었으니 이 얘긴 후일 대대장을 통해 전해 들었다. 그런데 박중사는 숫총각이라 위안부 상대하는 것을 완강히 거부했다 한다. 그리곤 티킷도 다른 전우에게 주려 하는 걸 규칙이라 안된다며, 분대원들이 억지로 떠메곤 위안부대의 천막 속에다 집어넣었다 한다.
모든 분대원들은 천막 안을 들여다보면서 역사적 사태(?)를 지켜보았는데, 아뿔싸 순진한 박판도 총각은 여자가 바지를 벗기려 하자 "싫다"며 도망가질 않나, 억지로 벗기곤 강행하려 하자 결사적으로 피하질 않나, 밖에서 지켜보는 분대원들에게 한바탕 웃음만 안겨주고 있었다.
그러나 워낙 좁은 곳이라 결국은 여자한테 붙잡혔는데 상대가 숫총각이란 걸 안 여자가 장난삼아 그의 물건을 만지면서 "애걔, 요만한 걸 가지고 왔어?"하며 놀리자, 끝끝내 그는 총(?) 한방 못쏴보고 얼굴만 빨개가지곤 도망쳐 나왔다는 거였다.
분대원들은 자신의 분대장에게 치욕의 여름(夏)을 남기지 않으려, 그날 밤 철저한 강의와 사례를 들려주어 결국 박판도 중사를 설득시켰다. 다음날 재시도 끝에 박판도 중사는 결국 성공한다.
그런데 문제는 다음부터다. 한번 위안부대를 다녀온 박중사가 완전히 맛을 들인 것이다.
"저…, 소대장님. 저…, 티킷 한 장 더 얻을 수 없나요?"
이 지경까지 되어 내게 보고가 올라오니 난 웃음을 터뜨리지 않을 수 없었다.
"허, 그놈 참. 그래 대대장이 알아서 두어 장 더 집어줘…. 하하하…."
그때부터 난 왠지 마음에 걸렸다. 순진한 녀석이 전투만 알다가 어느날 갑자기 인생의 어떤 새로운 면을 알게 되었다면….
<채명신 회고록 '사선을 넘고 넘어'> (267~269쪽에서 인용)
육군본부의 공식기록인 <후방전사>의 '특수위안대 실적통계표'(1952년)에 따르더라도 당시 위안대를 이용한 장병은 적게 잡아도 연간 20만명을 넘는다. 또 "위안대를 이용할 수 있는 예비대로 빠지기도 전부터 장병들의 화제는 모두 위안부대 건이었다"는 채장군의 증언에서 보듯, 당시 한국전쟁에 참전했던 모든 군인들은 군이 설치·운용한 '특수위안대'의 존재를 알고 있었다.
바로 그 '공공연한 비밀'이 50년만에 뒤늦게 불거진 것은, 이 드러내고 싶지 않은 군부의 치부가 일본군 위안부 제도의 찌꺼기이기 때문인지도 모른다.
물론 한국군 위안대는 동원방식이나 기간 그리고 규모 등에서 일본군 종군위안부 제도와 본질적인 차이점이 있다. 그러나 상당 부분 일본군 종군위안부 제도와 유사한 방식으로 운용된 것 또한 사실이다(아래 <표 3> 참조).
<표 3> 일본군·한국군 위안부 제도의 유사점과 차이점
우선 사기 앙양과 전투력 손실 예방을 내세운 설치 목적부터가 유사하다. 또 병사들이 군대천막 앞에서 줄을 서서 이용하고 군의관이 성병검진을 하는 이용·관리 풍경도 흡사하다. 또 일본군의 군표 대신에 티켓과 같은 대가가 지불된 거래형식으로 운용되기도 했다.
이는 목격자들의 증언으로도 뒷받침된다. 한국전쟁 당시 이 희한한 제도를 처음 겪은 김희오 장군은 처음 위안대를 목격한 순간에 직감적으로 "이는 과거 일본군 내 종군 경험이 있는 일부 간부들이 부하 사기앙양을 위한 발상에서 비롯된 것이구나"하는 생각이 들었다고 한다. 그래서 김장군은 34년간 군 생활에서 처음 본 공개적인 군 위안소 운영 사례에 대해 그 당위성을 떠나 영원히 찜찜한 기억으로 각인되어 있다고 기억한다.
이 '찜찜한 기억'은 바로 8·15 해방과 48년 정부 수립 이후 초기 국가 및 군부 형성에 깊은 영향을 준 친일파 청산문제와 맞닿아 있는 것이다. 이를테면 합참의장은 1대 이형근 의장부터 14대 노재현 의장까지, 육군 참모총장은 1대 이응준 총장부터 21대 이세호 총장에 이르기까지 일제 군경력자들이 독식했다는 점을 미루어볼 때, 한국전쟁 당시 위안부 문제는 미청산된 친일파 문제와 직결되어 있음을 직감할 수 있는 것이다.
김귀옥 박사는 "한국전쟁 군 위안부 문제는 일본군 위안부 제도의 불행한 자식이라고 할 수 있다"면서 "이 문제도 (일본군 위안부 문제처럼) 피해 여성과 사회 단체 그리고 학계가 연대하여 풀어내야 할 우리의 과거 청산 문제의 하나"임을 강조했다.
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공 유 하 기
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베트남전 때도 '위안대'운용 계획"
한국군도 '위안부'운용했다 ③ - 김귀옥 박사 인터뷰
href="mailto:dangk@ohmynews.com">김당 기자 dangk@ohmynews.com
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김귀옥 박사는 "냉전·친일파가 그 원조인 우리나라 우익이 스스로 반성하지 않는 한 일본 우익을 반성시킬 수는 없다"고
주장한다.
1950년 6월25일에 발발한 한국전쟁 당시 한국군이 군의 사기 진작을 위해
위안소를 설치하고 3∼4개 중대 규모로 위안대를 운영했다는 사실은 한국전에 참전했던 군인들이라면 다 아는 '공공연한 비밀'이었다.
그러나 이 '공공연한 비밀'은 2월22일 <오마이뉴스>에 처음 보도되기까지 지난 50년 동안 남자들의 군 시절
무용담이나 술자리에서나 운위될 뿐 한번도 공론화되지 못했다.
한국군의 어두운 과거를 담은 이 공공연한 비밀은 학계에서도 '금단의
영역'이었다. 그러나 구(舊) 일본군 위안부의 존재에 대해 근대사 연구가 눈을 돌리게 된 것이 냉전체제가 붕괴된 이 10여 년 사이의 일임을
감안하면, 한국군 위안부의 존재에 대한 뒤늦은 관심은 그리 놀랄 만한 일도 아니다. 더욱이 오랜 분단 상황과 군부 독재정권 하에서 군의 치부를
드러내는 것은 종종 '이적행위'로 간주되었다.
한국군의 이 부끄러운 치부를 처음 '공론의 장'으로 끌어낸 이는 여성 사회학자인
김귀옥 박사(경남대 북한전문대학원 객원교수·사회학)다. 김 박사는 한국전쟁 당시 월남한 사람들의 역사적 경험과 정체성을 연구하기 위해 지난
1996년 월남인 정착촌(속초시 청호동 아바이마을 등)에 들어가 현지 조사활동을 벌이다가 한국전쟁 당시 군이 운영한 위안소와 위안부가 있었다는
'충격적인 사실'을 처음 접했다.
이산(離散)과 폭력 같은 전쟁과 분단이 야기한 문제들을 사회학적으로 연구해온 김 박사는 지난
수년간 한국군 위안부라는 민감한 문제에 접근할 수 있는 단서들에 조심스럽게 접근해오면서 그 동안 그 실체가 전혀 공개되지 않았던 북파공작원과
민간인 납치(납남)에 관한 역사적 사실을 월간 <말>지와 <민족 21> 등에 기고해 주목을 끈 바 있다.
젠더(gender) 관점의 평화 연구자로서 늘 적극적으로 현실에 참여하는 김 박사를 만나 '한국군 위안부'라는 민감한 주제를
연구하게 된 저간의 사정을 들어보았다.
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부시 미국 대통령이 방한중인 지난 2월20일 서울 세종로 미 대사관 앞에서 '평화를 만드는 여성회'의 상징인 '평화의 비둘기'를 들고 1인
시위중인 김귀옥 박사.
"북파공작원들 '위안부'도
현지조달"
- 한국군이 위안대를 설치·운영한 사실을 언제 어떤 계기로 처음 알게
되었나.
"1996년 11월 속초에서 월남민 인터뷰를 하던 중에 이 문제를 처음 접했다. 1950년 10월 유엔군에 체포된 이
월남민은 당시 민간인인데도 인민군으로 분류되어 거제도(포로수용소)로 이송될 때까지 포로로서 미군부대를 따라다니며 취사와 빨래를 했다. 그런데 이
월남민에 따르면 당시 부대에는 이남 말씨를 쓰는 위안대 여자들이 있었다고 했다. 이는 점령지(이북)에서 끌고 온 여자들이 아니라는 얘기였다. 즉
미군과 국군이 50년 10월 휴전선을 돌파할 때 이미 여자들을 끌고 갔다는 얘기였다."
- 그것은
한국군이 아니라 미군 부대가 위안대를 운용한 얘기 아닌가.
"바로 그 얘기가 출발이 되어 한국군 위안부 문제에 관심을 갖게
되었는데 그와 관련된 기록을 1956년 육군본부가 편찬한 <후방전사>에서 발견했다. 사람들의 입 소문이나 기억의 소산이 아니라 군이
'특수위안대'라는 이름으로 위안소를 설치해 운영했다는 확실한 근거 기록을 찾게 된 것이다."
- 관련
기록을 찾은 뒤로는 어떤 과정을 거쳐 이 문제에 접근했는가.
"그 뒤로 군 관계자들을 만날 때면 이 기록의 진위 문제나 위안부
운용이 어느 정도 보편적인 것이었는지를 물어 확인하고 예비역 장성들의 회고록에 관련 기록이 있는지를 검토했다. 또 다른 위안대의 형태는
북파공작원과 위안부 여성의 만남이었다. 한국전쟁 기간 북파공작원이었던 사람들을 인터뷰한 가운데, 원산 앞바다의 섬에서 첩보·공작활동을 하면서
북한 지역에 침투해 여성들을 납치하면 십중팔구는 강간을 하거나 여자들은 섬으로 끌고 와 위안부 역할을 하게 했다는 사실을 알게 되었다."
- 그것은 HID 첩보부대의 일부에 국한된 얘기 아닌가.
"내가 만난
북파공작원들은 원산 앞 바다 섬을 몇 개 전전했는데 이런 위안부들이 그 섬마다 다 있었다고 증언했다. 원래 게릴라부대는 보급품을 현지 조달하게
돼 있지만 이들은 북한 여성까지 현지에서 (보급품으로) 조달했다는 얘기다. 나는 이런 현상이 증언자의 부대에만 있었다고 보지 않는다."
- 위안부 피해자의 증언도 청취했는가.
"구체적인 증언을 청취하지는 못했다. 그
중에는 1951년 당시 16살에 북파공작원들에게 납치되어 위안부 생활을 강요당하고 아이 둘까지 낳은 할머니(1936년생)를 수소문해 어렵게
찾았는데 '전쟁 때 아이 낳고 고생하며 산 것밖에 없다'며 더는 할 얘기가 없다고 했다. 이 할머니는 당시 친구들과 4명이서 여맹(女盟) 회의를
하다가 한밤중에 북파공작원들에게 납치되어 위안부 생활을 강요당한 피해자임에도 말해서는 안 되는 비밀을 갖고 있는 것처럼 살고 있다."
▲일본에서
열린 제5회 '동아시아 평화와 인권'국제심포지엄에 발표한 김귀옥 박사의 한국군 위안부 관련 논문을 보도한 <아사히신문> 2월24일자
기사.
- 군이 위안소를 설치·운영한 시대적 배경은
무엇이라고 보는가.
"1950년 전쟁 중에 많은 여성들이 강간과 겁탈을 당했다. 그런데 51년 여름이 되면 전선이 교착된다.
그러니까 50년에는 앞서의 유엔군 민간인 포로가 말한 것처럼, 여자들이 비정규적인 형태로 군부대를 따라다니며 낮에는 빨래하고 밤에는 군인을
위안하는 그런 형태로 운용되었는데 51년 여름 전선이 교착되자 군 스스로 위안부 제도를 효과적으로 운영할 수 있는 체계를 만들 필요성을 가졌던
것으로 보인다. 즉 50년에는 전쟁이라는 이름으로 수많은 여성들에 대한 강간과 납치 그리고 강제된 위안부 생활이 가능했다면, 51년에는 전선이
고착되어 후방의 지루한 전쟁이 계속되면서 주기적으로 전선에서 후방으로 교체되는 장병들에게 뭔가 유인책이 필요했던
것이다."
- 한국전쟁 당시 위안부 제도를 도입한 것은 일본군에 복무한 경력이 있는 한국군 수뇌부가
일본군 위안부 제도를 경험한 것과 상관관계가 있다고 보는가.
"예비역 장군들의 증언에 따르면, 밀접한 상관관계가 있는 것으로
보인다. 즉 한국전쟁 당시 군의 골간이었던 일본군·관동군 출신 장교들에 의해서 군 위안대가 창설되었다는 추정이다. 이것은 51년 당시 육군본부
휼병부(恤兵部)를 누가 주도했는지를 파악하면 훨씬 더 진전된 답을 얻을 수 있을 것으로 보인다."
"강간·납치에 의한 위안부도
있었을 것 추정"
- 군 위안부 제도의 도입을 기획한 주체가 누구인지는 드러나지
않는가.
"육군본부의 공식기록인 <후방전사>에는 위안부 제도를 도입한 주체가 누구인지 밝히고 있지 않다. 그러나
여러 정황과 장군들의 증언으로 볼 때 일본군·관동군 출신으로 추정하는 데 무리가 없다. 그리고 육군이 위안소를 운영했다는 것은, 그 당시에
작전지휘권을 유엔군(미군) 사령관이 갖고 있었기 때문에 위안소 설치·운영에 관한 건도 유엔군(미군) 사령관이 최종 승인했거나 적어도 묵인했을
것이라는 가설을 뒷받침한다."
- 미군이 한국군에 대한 작전지휘권을 가진 것과 후방지역에서 한국군이
위안소를 운영하는 것은 별개라고 보는데.
"왜 위안부 제도의 미군 승인 문제를 꺼내냐면 베트남 전쟁 때 한국군이 위안대를
운영하려고 계획을 했는데 미군의 반대로 무산된 경험이 있었기 때문이다. 주월 한국군 사령관을 지낸 채명신 장군이 그렇게 증언을 했다. 월남전
때도 한국군이 사기 진작을 위해 위안부 운영을 계획했는데 미군이 동의하지 않아 운영하지 못했다는 것이다. 결국 한국전쟁 때도 작전지휘권을 갖고
있던 미군의 승인까지는 아니더라도 적어도 위안부 설치·운영에 관한 보고는 했을 거라고 생각한다."
-
한국전쟁 당시 군은 위안소를 어떤 방식으로 운영했나.
"크게 보면 육군본부에서 관할한 고정식 위안소과 이동식 위안소 그리고
비정규적인 위안부의 세 가지 형태이다. <후방전사>에 보면 육군은 서울에 3곳, 강릉에 3곳, 그리고 속초·원주·춘천 등 총 9곳에
고정식 위안소를 설치해 위안부를 붙박이로 두고 운영했다. 그리고 필요시에, 이를테면 전방에서 준후방지역으로 빠져나온 부대가 위안부를 요청하면
위안부 여성들을 거기로 보냈다. 일종의 이동식이다. 제3의 형태는, 일부 장군들의 기억에 따르면, 각 사단이나 연대 단위에서 사창의 여자들을
데려와 위안부로 이용하고 사단 휼병부나 연대 인사처에서 돈을 지급하는 비정규적인 임시 위안소이다. 비정규는 부대 사정에 따라 자체적으로 위안부를
이용한 것이지만 정규 위안소와 공통점은 개인(군인)이 아닌 군(부대)이 비용을 지급했다는 점이다. 그런데 비정규적인 형태로 운영한 위안부가
정규적으로 운용한 위안부보다 더 많았을 것이라는 것이 하나의 가설이다."
- 한국전쟁 당시 고정식
위안소의 설치 장소는 어디이며 그 규모는 어느 정도인가.
"서울에 세 군데가 있었는데 가장 규모가 큰 곳이 충무로 4가
148번지에 소재한 위안소였다. 대한극장 앞인데 현재 행정구역으로는 광희동이다. 물론 지금은 흔적을 찾을 수 없다. 이 번지수의 건물은
1988년 서울올림픽을 앞두고 86∼88년 무렵에 철거가 되어 지금은 기종빌딩으로 바뀌었다. 흥미로운 사실은 이 자리에 있었던 낡고 허름한
건물을 사람들이 '해병대아파트'라고 기억하고 있다는 점이다. 그런데 광희동 토박이 조사를 통해 확인해 보았지만, 사람들은 왜 해병대아파트라고
불렀는지는 아무도 모르고 있다."
- 그곳이 민간인의 출입을 금지한 '군 전용 위안소'라는 근거가
있는가.
"민간인들이 출입할 수 없는 '군 전용 위안소'라는 것은 <후방전사>에도 나온다. 또 군의관이 성병 관련
정기검진을 했다. 그리고 그 성격을 공창으로 파악했던 것은 틀림없는 사실이다. 왜냐하면 <후방전사>는 위안소 폐쇄 배경을 '공창이
없어지는 시대 조류에 따라서 없앤다'고 기록하고 있기 때문이다. 다시 말해 그것이 공창이다, 또는 아니다가 중요한 것이 아니라 국가(군)가
운영한 것을 육군이 인정한 사실이 중요한 것이다."
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style="FONT-WEIGHT: normal; FONT-SIZE: 9pt; COLOR: #8c8f70; FONT-FAMILY: verdana,굴림체; TEXT-DECORATION: none">▲김귀옥
박사가 <민족 21>(2001년 9월호)에 쓴 '속초 세 할머니가 겪은 6·25 전쟁'에 관한 글과 사진. 이산(離散)과 폭력 등
전쟁과 분단이 야기한 문제를 사회학적으로 접근하는 글을 발표해 주목을 끌고
있다.
- 그렇다면 군은 언제부터 언제까지 위안소를
운영했으며 위안부들은 어디에서 충원했나.
"위안소를 설치한 시점은 51년 여름으로 추정되고 폐지 시점은 54년 3월로 명시되어
있다. 이들이 어디서 어떻게 충원되어 왔는지는 언급이 없다. 따라서 이것을 밝히는 것이 큰 숙제 중의 하나다. 그러나 일부 예비역 장군들이
기억하듯이 '종3 여자'(사창)만으로 충원한 것은 아니었다고 본다. 왜냐하면 속초 같은 데도 전시(戰時)에 사창이 있었는데 사창 여자들과 위안소
여자들은 구분되어 있었기 때문이다."
- 그 근거는 무엇인가.
"해방 이후 공창이나
유곽의 여성은 약 2천여 명 정도였다. 그런데 이런 여성들이 48년 말에 2만여 명으로 늘어났다가 전쟁이 끝나고 50년대 중반이 되면 30여만
명으로 늘어난다. 이런 통계를 보면 당시 사창 여자들만으로 군 위안소를 충원하기는 불가능했을 것으로 보인다. 상당한 인원은 여염집 여자들로
끌어들였을 것이다. 여기에는 가난과 빈곤 때문에 흘러들어온 사람도 있지만 일부는 강간과 납치에 의한 경우도 있었을 것으로 추정된다. 왜냐하면
내가 만난 한 여성은 자기가 군부대에 잡혀 있을 때 그 부대에 이미 그런 여성들이 있었다고 증언하고 있기 때문이다."
"한국
우익이 반성해야 일본 우익을 반성시킬 수 있다"
- 한국군 위안부 문제에 관한 논문을 이번에
일본에서 열린 제5회 '동아시아 평화와 인권 심포지움'(2월22∼25일)에서 발표하게 된 특별한 배경이 있는가.
"지난
2000년 학술단체협의회가 주최한 한국전쟁 관련 학술행사의 종합토론회에서 아직까지 현대사에서 풀어내지 못한 과제의 하나로 한국군이 운영한
위안소가 있었다는 사실을 공개적인 자리에서 처음 얘기했다. 그래서 그때 그 자리에 있었던 몇몇 신문기자들이 내게 구체적으로 얘기를 해달라고
했는데 그 규모나 실태를 아직 조사중이어서 지금은 얘기할 수가 없다고 했다. 그러다 그해 겨울에 북파공작원에 대한 글을 발표한 적이 있는데
거기에 위안부 얘기가 약간 들어 있었다. 그런데 한국전 연구자인 후지메 유키 교수(일본 오사카 외대)가 이 글을 보고는 제5회 동아시아 평화
인권 대회에서 이것을 주제로 글을 발표하면 좋겠다고 공개적으로 추천하는 바람에 고민 끝에 결국 글을 발표하기로 결심을
했다."
- 한국군 위안부라는 민감한 주제의 논문을 일본에서 처음으로 발표할 경우 이 논문을 일본
우익이 악용함으로써 그렇지 않아도 아직 미해결 상태로 남아 있는 일본군 위안부 문제 해결의 장애요인으로 작용할 가능성도 예상할 수 있는데 그에
대한 소신이나 반론이 있으면 얘기해 달라.
"물론 그에 대한 고민은 여러 번 했다. 당연히 걱정하게 되는 것은 구 일본군
위안부 문제도 아직 매듭짓지 못한 상황에서 일본 우익들이 이를 악용할 가능성이다. 그래서 사실 이 문제를 96년에 처음 접했으면서도 공론화하지
않고 시간을 끌었던 측면이 있다. 그러나 이에 대한 생각은 확고하다. 일본 우익도 문제지만 우리나라 우익도 그에 못지 않게 문제라는 것이다.
지난해 일본 역사교과서 왜곡 파동에서 드러났지만, 냉전 친일파가 그 원조인 우리나라 우익이 스스로 반성하지 않는 한 일본 우익을 반성시킬 수는
없다고 본다. 그래서 이른바 국익을 앞세워 이를 미뤄둘 것이 아니라, 군이 작성한 공식문건이 있는 한 얘기를 해야 한다고 생각했다. 우리의 역사
청산을 제대로 함으로써 일본 우익의 관점을 바꿔내고 국가적 차원에서의 사과도 받아낼 수 있다는 생각이 이 글을 쓰고 발표한
배경이다."
- 왜곡된 과거사 청산 차원에서 한국군 위안부 문제 진상규명을 위해 정부와 군 그리고
민간에 바라는 바가 있다면 그것이 무엇인가.
"군은 국가를 위해서 목숨까지 바치는데 여자들이 그 까짓쯤이야, 이렇게 생각할지도
모른다. 그것은 국가 차원에서 위안부를 동원한 것은 아니라고 발뺌하는 일본 정부의 논리나 다를 바 없다. 그러나 군이 어두운 과거사를 밝히는
것은 치부를 드러내는 것이라기보다는 오히려 군이 새롭게 태어날 수 있는 기회를 제공하는 것으로 인식할 필요가 있다. 따라서 군이 적극적으로 나서
당시 자료를 공개하고, 진상을 밝히는 것이 바람직하다. 그리고 제2의 김학순 할머니(일본군 위안부 증언자) 같은 분이 나와서 증언을 해준다면
더할 나위 없이 큰 힘이 될 것이다."
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Strathfield community divided over proposed tribute to comfort women MATT PEARSON INNER WEST COURIER INNER CITY
Strathfield community divided over proposed tribute to comfort women
MATT PEARSON INNER WEST COURIER INNER CITY APRIL 02, 2014 9:35AM SHARE
Jan Ruff O'Herne (pictured with her daughters in England) was taken as prisoner of war as
Jan Ruff O'Herne (pictured with her daughters in England) was taken as prisoner of war as a girl, and forced into sexual slavery by Japanese troops during WWII. Picture from the film 50 Years of Silence
CONTROVERSY over a plan to build a statue honouring women forced into sex slavery during WWII boiled over at Strathfield Council last night.
More than 120 people poured into the meeting in response to a proposal to put up the statue in Strathfield honouring the 200,000 ‘comfort women’ — women and girls forced into sexual servitude during war by the Japanese.
The issue has divided Sydney’s Asian communities and yesterday, was criticised as misguided by the Japanese embassy in Australia.
A petition opposing the statue started by Japanese Women for Justice and Peace has already attracted over 10,000 signatures.
Scenes from Strathfield Council’s April meeting.
Scenes from Strathfield Council’s meeting last night.
Now there are questions over whether the statue plan is simply causing further divisions.
More than 25 per cent of Strathfield’s population have Chinese or Korean ancestry and members of both communities have pushed hard for the statue in Strathfield.
Many comfort women were taken from Japanese occupied areas in Korea and China during WWII as well as other South-East Asian nations including Indonesia and Vietnam.
Last night, councillors allowed speakers from both sides to take the floor including Carol Ruff, the daughter of Jan Ruff O’Herne, a former comfort woman born in Java who in the early nineties spoke out about her experiences.
Friends of Comfort Women Australia supporter Jan Ruff O'Herne, 84, (right) with her siste
Friends of Comfort Women Australia supporter Jan Ruff O'Herne, 84, (right) with her sister Celeste.
Carol Ruff - pictured at an exhibition last year- spoke passionately about her mother Jan
Carol Ruff - pictured at an exhibition last year- spoke passionately about her mother Jan Ruff O'Herne’s life as a comfort girl at Strathfield Council last night.
“We feel that, as you can see here tonight from the meeting, this issue hasn’t really gone away and I think it’s passed down through the families,” said Ms Ruff, who made acclaimed documentary 50 Years of Silence about the book her mother wrote about her life.
“We still feel very strongly. I think what she (Ms Ruff O’Herne) would like to see — apart from a statue in Strathfield — is some recognition from the Japanese government and an apology. That would mean so much, just like when Kevin Rudd said sorry.”
Others argued that raking up events from 70 years ago was not conducive to harmony while some questioned the validity of a statue which would have minimal connection to Australia.
Kohki Iwasaki, who identified himself as Japanese-Australian, said approving the statue would be “synonymous with apartheid” pointing at incidents of racism when a similar statue was erected in America to suggest it would be culturally divisive.
“On it (the statue) is carved a statement that turns all the existence of the Japanese race into a crime against humanity, without realising that it is this very statue that is encouraging yet another crime against humanity,” he told the meeting.
Jan Ruff O’Herne (right) in Tokyo, 1993 with other ‘comfort women’ from North and South K
Jan Ruff O’Herne (right) in Tokyo, 1993 with other ‘comfort women’ from North and South Korea, China and the. Philippines
Mr Iwasaki went on to say that the statue contravened UN directives on human rights and would open old wounds.
Why single-out a 70-year-old story of hatred, when we can use that effort to prevent something happening now,” he asked.
“I believe the statue is only going to breed more hatred. If we sow seeds of hatred, what will grow?”
After leaving the makeshift chamber to discuss the issue in closed session, the council decided to refer the issue to both the state and federal government and consult its community following the responses.
Prime Minister Shinzo Abe. Picture: AFP
Prime Minister Shinzo Abe. Picture: AFP
Deputy mayor of Strathfield Sang Ok.
Deputy mayor of Strathfield Sang Ok.
The plan for the statue arose from the outrage caused in Japan last month, when more conservative elements of the Japanese government said a 1993 apology to the women, mainly of Korean and Chinese heritage, should be watered down.
Japanese Prime Minister Shinzo Abe caused further anger by suggesting many of the women were willing participants, although he later distanced himself from the issue.
Strathfield Council’s deputy mayor Sang Ok this week condemned the Japanese prime minister’s comments and has come out in support of the proposed statue, which would be a version of the one in the US by Chinese artist Pin Hsun Hsiang.
While no official proposal was on the council agenda last night, 120 people turned up in response to the increasing controversy building around the statue. The crowd was so big, it forced the council from its normal chambers and into a bigger hall.
Comfort Women
● Comfort women were women and girls taken from countries occupied by Japan during World War II, including Korea, China, Indonesia, Vietnam, Burma and the Philippines.
● Although the bulk of the women involved were from South-East Asia, some were from Australia and The Netherlands.
● Some claim as few as 20,000 women were involved while others say up to 410,000. Somewhere around 200,000 is the widely accepted figure.
● It is estimated that up to three quarters of comfort women died, with most others left infertile due to sexual trauma.
● It is claimed that the women were often abducted from their homes and promised work in factories or restaurants, before being sent to the ‘comfort stations’.
● Documents from the Japanese Imperial Army suggest that the stations, attached to the military, were set up to prevent the rape of local women by army personnel in order to dispel rising hostility among people in invaded area.
● Despite accepting that the women were coerced in 1993, the Japanese government reneged on their decision in 2007, claiming there was no evidence that the women were seized by force.
Originally published as Statue will ‘sow seeds of hatred’
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Overseas expedition prostitution Korean woman, reality amazing Language training to make money in Sydeny
http://sagunin.com/sub_read.html?uid=322
사건의 내막 > 사건 요지경
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한국女 해외원정 성매매 기절초풍 실태
돈 버는 어학연수? 어럽쇼∼ 나라망신!
취재/이상호 기자 ㅣ 기사입력 2012/03/05 [16:23]
‘워킹홀리데이’ 비자로 대학생 알몸마사지 “수치심 없애라”며 대마초까지 권해
사채빚 여성 꼬드겨, 고금리 사채 쓰게 해 몰래카메라에 폭행까지 2차 피해 발생
도쿄로 여행을 다녀온 김상혁(28)씨는 일본 여행 첫날 깜짝 놀랄 만한 일을 겪었다. 여행 둘째 날 친구와 술을 마시고 있던 김씨에게 한 일본인 남성이 다가와 “한국 연예인급 미모의 여대생들이 있다”며 성매매 관련 호객행위를 했기 때문이다. 호기심이 발동한 김씨는 “한국인들이냐” 물었고, 이에 그 남성은 “한국인부터 동남아까지 다 있다”고 말했다. 호주 시드니에서 워킹홀리데이를 했었던 이재현(29)씨는 현지에서 일하는 프랑스 친구로부터 “호주 시드니에는 한국인 여성들이 성매매를 하는 것으로 유명하다”는 말을 들었다. 그 프랑스인은 “자신도 한번 한인 여성과 관계를 가졌는데, 다른 나라 여성보다 훨씬 나았다”며 “나중에 섹스여행으로 한국에 한번 가보고 싶다”고 말했다. 한국 여성들의 해외 원정 성매매가 심각한 수준으로 치닫고 있다. 해외원정 성매매 여성은 대부분 20대로, 돈을 벌기 위해 자발적으로 해외 성매매에 나서거나 사채업자에게 빚을 져 이를 갚기 위해 나서는 경우도 있는 것으로 알려졌다. 또한 국내 성매매특별법 강화로 일자리를 잃은 여성들도 해외로 나가 성매매를 하고 있다. 더욱이 최근에는 이혼녀를 비롯해 대학생들도 해외 성매매에 가담하고 있어 충격을 더하고 있다. 이와 관련해 본지는 해외성매매의 실태와 이에 따른 피해여성들의 사례를 집중 조명해 봤다.
취재/이상호 기자
외국에 나가 언어도 배우고 돈도 벌 수 있는 ‘워킹홀리데이’ 비자를 발급받아 원정 성매매에 나서는 여대생들이 늘고 있다. 서울의 한 사립대학을 휴학한 김(22)씨는 방학이면 어학연수를 떠나는 친구들이 부러웠다. 그러다 김씨는 한 친구에게 영어도 배우고 돈도 벌 수 있다는 ‘워킹홀리데이’를 알게 됐다.
대학생, ‘워킹홀리데이’ 비자 발급후 성매매
첫 해외여행을 준비하며 꿈에 부풀어 있던 김씨에게 도움을 준다며 친구는 호주에서 숙박업을 한다는 박(48)씨를 소개했다.
초반 박씨는 김씨에게 호주와 관련된 여러 가지 정보를 제공했다. 그러다 박씨는 김씨에게 “기왕 외국에 나가는 것인데 한인들과 어울리지 말고, 외국인만을 대상으로 일을 할 수 있는 곳이 있다. 더욱이 보수도 꽤 높은 일자리다”고 말했다.
박씨가 말한 그 일은 바로 호주 현지인을 상대로 하는 알몸마사지였다.
큰돈을 벌 수 있다는 말과 해외라면 자신을 알아보는 사람이 없을 것이란 생각에 결국 김씨는 박씨의 제안을 받아들였다.
시드니에 도착한 김씨는 바로 박씨가 운영하는 마사지 업소에서 합숙을 하게 되었고, 그곳에서 김씨는 자신과 나이가 비슷한 대학생 두명을 만났다.
그 업소에는 여대생뿐만 아니라 한국인 여성 10여 명이 함께 윤락행위를 하고 있었다.
김씨가 업소에서 호주인을 상대로 알몸마사지와 성매매의 대가로 받은 돈은 한화로 약 18만원, 이 중 8만원이 김씨의 몫이었다.
김씨는 본지와의 통화에서 “현재 호주 내에는 나와 같이 돈을 벌기 위해 워킹 비자로 일(성매매)을 하는 대학생들이 많이 있는 것으로 알고 있다”면서 “호주 자체는 성매매가 불법이 아니어서 사실상 죄책감이나 수치심보다는 돈과 영어공부에 대한 욕심이 더 크다”고 말했다.
호주에는 현재 한인 여성들 1000명 정도가 성매매를 하고 있다. 이 같은 수치는 호주 내 외국인 성매매 인구 중 16%가량으로 파악된다. 특히 김씨와 같은 대학생들이 워킹홀리데이 비자를 발급받아 성매매를 하는 경우가 8~10%정도 되는 것으로 알려져 있다.
사채빚, 해외 원정 성매매…마약까지
워킹홀리데이를 통한 자발적 해외 성매매도 큰 문제지만 사채빚에 시달리다 해외로 팔려나가는 여성들은 더욱 큰 사안이다.
지난해 부산에서는 한무리의 조직폭력배들이 보도방 업주들에게 보호비 명목으로 돈을 받아 챙기면서 업소 종사자 여성들에게도 강제로 고금리 사체를 쓰게 한 사건이 있었다.
이들은 업소 종사 여성들에게 터무니없는 고금리 사채를 강제로 떠안기며, 갚지 않을 경우 일본 및 호주로 팔아넘긴 것으로 드러나 충격을 주었다. 더욱이 이들은 해외로 여성들을 팔아넘기면서 성형비용, 비자발급비용, 비행기표 등 역시 여성들의 빚으로 넘긴 것으로 알려졌다.
문제는 이뿐만이 아니었다. 해외로 팔려간 여성들은 성매매를 하면서 업소주인에게 받은 마약에 손을 대기 시작했다. 업소 주인들은 “손님을 한 명이라도 더 받으려면 이거(마약)라도 하고 해야 한다”면서 반강제로 마약을 여성들에게 제공했다.
서울지방경찰청은 일본 성매매업소 취업을 희망하는 국내 여성들을 모집해 일본 원정 성매매를 알선한 일당 24명을 불구속 입건했다.
이들 일당은 여성들에게 “한 달에 3000만원 상당의 거금을 벌 수 있게 해주겠다”고 속여 성매매를 알선하고 10억원가량의 이득을 챙긴 혐의를 받고 있다.
경찰 조사에 따르면 이들 일당은 지난해 8월부터 약 1년 동안 사채 등으로 힘들어하는 국내 여성등을 모집해 1인당 100만원의 소개료를 받고 일본 성매매업소에 취업을 시켰다. 여성들은 일본 남성 1인당 시간에 따라 2만~15만 엔(한화 30만~190만원) 상당의 돈을 받은 것으로 밝혀졌다.
20대에서 40대의 다양한 나이로 구성된 해당 여성들은 여대생과 대학원생, 유흥업 종사자, 이혼녀들로 “단시일에 많은 돈을 벌 수 있고, 해외라 익명성이 보장된다”는 말에 현혹된 것으로 조사됐다.
이 과정에서 여성들은 직업소개소를 통하거나 이미 일본에 간 여성들로부터 정보를 받고, 사이트에서 신청하는 식으로 일본 원정 성매매에 나섰다.
하지만 여성들은 비행기 티켓(60만원 상당), 의류 구입비, 차량비, 누드사진 촬영비, 휴대전화 사용료, 숙소비 등으로 성매매 전 이미 500만원 상당의 빚을 지게 됐고, 월 10% 이자를 무는 신세가 됐다.
몰카에 폭행까지…추가피해
앞 서 밝힌 부산 조직폭력배 원정 성매매 사건에서 한 피해여성은 일본인 성매수 남성이 자신과의 성관계 장면을 몰래 촬영해 P2P사이트에 올려 2차 피해를 본 케이스다. 이 동영상은 ‘원정녀’등의 제목으로 21편이 이미 인터넷에 퍼졌다. 동영상에는 한국 여성이 등장한다는 것을 알 수 있는 노골적인 제목도 달렸다. 그리고 일본 내에서 운영되는 유료 사이트에 게재됐는데 남성의 얼굴은 철저하게 가렸지만 여성들의 얼굴은 숨김없이 드러낸 점, 광복절 전날 게재된 점 등 다분히 한국을 폄훼하기 위한 의도성이 엿보인다.
호주에서는 한 20대 백인 남성이, 국제 인신매매조직에 걸려들어 호주 한 사창가의 성 노예로 전락한 한국인 여학생을 구하려다 참혹하게 살해된 사건이 발생했다. 2009년 2월12일 호주 사우스 멜버른 요크가 59번지, 한국·중국인 여성 전문 성매매업소 앞길에서 27세의 유대인 에이브람 파포로가 턱뼈가 산산이 조각나 있었고, 코뼈와 두개골은 부서졌고 양팔 조직, 기도 모두 손상돼 사망했다. 범인은 성매매업소에서 운전기사로 일하는 중국인 더 준 쳉으로 밝혀졌다. 그는 손님과 매춘여성을 한번 태워줄 때마다 10달러씩을 받았다.
경찰 조사 결과, 에이브람은 사건 당일 ‘케이티’라는 이름을 쓰는 20대 한국인 여성을 구하기 위해 성매매업소를 찾아갔던 것으로 나타났다. 에이브람은 가족들과 함께 사는 자신의 집에 케이티를 데려와 수개월간 동거했던 것으로 전해졌다.
사건 당일, 에이브람은 케이티에 전화를 걸었다가 그녀의 울음과 비명을 들은 것으로 전해졌다. 에이브람은 통화를 계속하려 했지만, 누군가가 케이티의 전화기를 가로채 “이 여자 근처에 얼씬거리면 토막을 내놓겠다”고 말한 뒤 전화를 끊어버렸다.
에이브람의 형 데이비드는 “동생은 ‘케이트가 성매매 일을 강요당해왔으며, 이제는 시드니로 강제로 옮겨졌다’고 했다. 그러고는 성매매업소 사람과 언쟁을 벌인 뒤 집을 나섰다”고 말했다.
호주 경찰은 “한인을 비롯한 호주 내 원정 성매매 여성들의 인권피해가 심각한 상황”이라면서 “이 사건 역시 호주 내에서 벌어지는 아시아계 여성들의 인권피해 상황과 맞물려 있다”고 밝혔다.
당국 대책은?
경찰은 최근 “외교통상부와 합동으로 원정 성매매 예방 및 단속 활동을 강화해 해외에서 국가 이미지 실추를 막을 것”이라고 발표했다. 실제 경찰은 지난 8월22일부터 9월30일까지 40일간 해외 성매매를 집중 단속한 결과 총 225명을 검거하기도 했다.
외교 당국도 호주 내 원정 성매매를 하는 여성들을 강제 소환하는 조치를 취할 것으로 알려졌다. 13일 외교부는 전날 문하영 재외동포영사대사를 호주에 파견했다.
문 대사는 호주 외교부의 영사 담당 차관보와 경찰 관계자 등을 만나 한국 여성의 매춘과 관련된 인신매매, 불법 입국 등을 막기 위한 공조 방안을 협의할 계획이다.
정부 관계자는 “지난 2004년 한국에서 성매매특별법이 제정되면서 성매매 단속이 강화되자 한국 여성들의 해외 원정 매춘이 증가하고 있다”며 “국제적으로 문제가 된 만큼 이와 관련한 일당들을 검거하는 한편, 이 같은 일을 통해 국가적 체면이 떨어지는 일이 없도록 하겠다”고 말했다.
하지만 해외 성매매와 관련해 피해를 입은 여성들은 이 같은 당국 대책에 대해 회의적이다.
한 피해 여성은 “외국에서 매춘을 하는 한국 여성이 10만 명에 이른다는 분석도 있다”면서 “이렇게 많은 숫자가 해외 성매매를 하는 구조적인 문제는 국내에서 여성을 모집하는 브로커와 현지 취업 알선책, 유흥업소 운영자 등이 개입돼 있기 때문”이라고 말했다.
전문가들 역시 “원정 매춘 단속이 쉽지 않은 것이 현실이다. 외국 곳곳에 퍼져 있는 성매매 업소를 일일이 점검하기는 물리적으로 제약이 많다. 더구나 호주처럼 성매매가 합법인 나라에서는 허가를 받은 등록업소는 성매매가 가능해 양국 관계당국 간 공조를 모색하기도 어려운 측면이 있다”면서 “국내에서 여성을 꼬드기는 브로커에 대한 단속을 강화하는 것이 핵심이다. 이들을 통해 국제적인 매춘조직 실체를 밝혀내 현지 수사당국에도 정보를 제공함으로써 일당을 잡아들이는 데 역점을 둬야 한다”고 말했다.
235st@hanmail.net
http://pann.nate.com/b319427681
호주갔다온 한국여성의 몇 %가 성매매를했을까???
남성 (판) 2013.09.25 15:14 조회273
톡톡 남자들끼리만 채널보기 목록 이전글 다음글
호주는 워킹홀리데이 비자를 받기가 좋아서 대학생들이나 취업준비생들이 주로 어학연수 코스로 오는곳이지
근데 몇년전부터 한국인 원정 성매매가 문제가 좀 됐어
아침에 창녀왕 한국 이란 일베를 보고 호주는 어떨지 조사 해봤다
일단 호주에 한국인 워킹홀리데이 숫자를 찾아봤어
호주가 제일 많더라
2005년 부터 총 워킹으로 온 한국인 수가 207,812명
호주내 한인 원정성매매가 문제가 된게 2005년 말 부터 2006년 초에 시작됐으니까
2004년 성매매특별법 제정이후 원정성매매로 나온 여성이 급증하지
워킹으로 온 수중에 60%정도가 여자 같지만 확실치 않으니 50%가 여자라고 잡아봤어
2012년 자료는 없으니 평균잡아 30,000명을 더해주고
237,812명을 반으로 나누면 103,906명이 여자야 하지만 실제로 여성의 비율이 더 높다고 느껴져
최소 10만명인거지
그럼 이제 한해 호주내에서 성매매 비스무리 한것을 하는 한국인 여성을 찾아봐야지?
일단 정부 조사보다 현지 조사를 해보자
호주내 워킹의 60%정도는 시드니에 몰려있어
그럼 한해 15,000명 정도의 워킹 여자들중 60%면 9,000명 정도겠지?
먼저 호주의 성인 산업은 마사지 샵, 풀 샵, 노래방(룸) 이렇게 크게 세부분으로 나누는데
그중 풀샵은 sex를 하는 곳이고 마사지는 한국의 대딸방이라고 보면돼
노래방은 한국의 노래주점 정도 돼
호주 지역신문 뒤에는 성인광고란이 있는데
그중 한국인 중국인들이 많이 사는 지역의 지역지야
한번 세어 보았더니 86개정도 광고가 있어
일단 시드니의 마사지 샵은
마이다스, 마스티지, 로미오, 줄리엣 이렇게 유명한곳이 네군데 인데
네군데 전부 한국인이 95% 이상이야
가끔 일본애들 있긴한데 100% 한국인이라고 봐도 무방해
물론 리셉션(프론트)도 전부 한국인이지
대딸방 네군데인데 아가씨 숫자는 비슷해
대충 20~30명 정도가 로테이션으로 돌거든
그럼 20명으로 잡고 (물론 더 된다고 봐 하지만 여기저기 도는 애들도 있으니까 20명으로 잡자) X4 하면
80명이지?
보통 3개월이면 물갈이가 된다고 보니까
80 X 4 = 320
320명 정도가 연평균 대딸방 일하는 한국 아가씨 수라고 추정돼
물론 실제로는 더 많다고 예상돼
다음엔 풀샵인데
시드니에 한국인만 있는 풀샵은 세군데야 주인이 한국인인데 브로커가 한국에 이쁜애들을 직접 수속해서 불러와 얘네는 점조직이라 족쳐도 소용없대
풀샵 세군데에 평균 20명 정도 있으니
마사지처럼 계산 해보면 한국인 풀샵엔 1년에 240명 정도 일하는 거겠지
하지만 외국인 풀샵도 최소 5명씩은 한국인이 있어
외국인 풀샵중 최소 5명 이상 한국인이 있는곳은 시드니에 일단 6개를 알아
그럼 5 X 6 = 30명 3개월에 한번 물갈이 되니까 30 X 4 = 120명
그외 군소 풀샵들도 한국인 없는곳은 없거든
100군데가 넘는 샵중에 한명씩으로 치면 그것도 400명은 나오네
풀샵 + 마사지샵 일하는 한국 애들이 년 320 + 240 + 120 + 400 = 1080명이 나와
하지만 실상은 더 될 거라고 생각돼 심각한 수치야
이제 노래방인데
호주에선 2차가 불법이야
술을 팔아도 되고 몸을 팔아도 되는데 술과 몸을 같이파는 시스템이 없어서인지 불법이래
걸리면 문 닫아야 하지
하지만 노래방엘 다니는 이유는 한국의 대학생들이 보통 노래방일을 해
걔들은 한국 선수들 보다 멍청멍청해서 꼬셔서 작업하는 경우가 많아
외국이고 하니까 잘넘어 와
시드니에 노래주점은 15개 정도 있는데 굵직한거 몇개 말고는 생겼다 없어졌다를 반복해
그럼 평균 10개라고 치면
한군데당 아가씨가 15명 정도 있으니
150명 X 4 = 600명 정도가 1년에 일한다고 볼 수 있겠네
그럼 한해에 시드니에서 몸팔고 가는 김치녀들의 숫자는 1680명이야
이게 최소치라고 자부할 수 있어
시드니 9000명 여자 워킹 김치중 1700명 가량이 몸을 판 거야
시드니만 1700명이고 호주전체로 계산하면 2800명이 넘어가지
물론 호주 전국의 유명 성인샵에서 한국인이 없는샵은 광주 시청앞에서 슨상님 욕 1시간 하고 살아돌아올 확률보다 낮다고 봐
2005년 부터 작년까지 계산하면 총 19,742명의 김치가 몸을 팔고 온거야
다시 냉정하게 계산해 볼께
한국에서 일을 안하다 호주와서 처음 하는 애들도 있어
그런애들이 반이라고 봐도 펍에서 백인들한테 대주는 애들 천지니까 호주에 와서 수건가 되어 돌아가는 김치녀의 수는 2000명 이상이라고 추정돼
물론 그 이상일 꺼라고 강하게 믿어
이제 왜 호주 갔다온 여자애 사귀지 말라고 하는지 알지?
호주갔다온 김치 만나서 ㅅㅅ 하면 허공의 삽질이 뭔지 느끼게 될 수 있어
그걸 의식해서 인지 호주에서 번돈으로 한국가서 이쁜이 콤보 수술 받더라
호주에 대물중의 대물은 레바논 형님들인데
평균 ㅈㅈ크기가 팔뚝이라고 보면 돼
물론 김치들은 성님들껀 잘 못받지만 받는애들도 상당수야
결론은
호주내 돈주고 몸파는 한국여성 연 2800명 정도 예상
호주내에서 몸팔고 올 한국여성 비율 20%
호주내에서 ㅍㅍㅅㅅ하다올 한국여성 비율 99.8%
사건의 내막 > 사건 요지경
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한국女 해외원정 성매매 기절초풍 실태
돈 버는 어학연수? 어럽쇼∼ 나라망신!
취재/이상호 기자 ㅣ 기사입력 2012/03/05 [16:23]
‘워킹홀리데이’ 비자로 대학생 알몸마사지 “수치심 없애라”며 대마초까지 권해
사채빚 여성 꼬드겨, 고금리 사채 쓰게 해 몰래카메라에 폭행까지 2차 피해 발생
도쿄로 여행을 다녀온 김상혁(28)씨는 일본 여행 첫날 깜짝 놀랄 만한 일을 겪었다. 여행 둘째 날 친구와 술을 마시고 있던 김씨에게 한 일본인 남성이 다가와 “한국 연예인급 미모의 여대생들이 있다”며 성매매 관련 호객행위를 했기 때문이다. 호기심이 발동한 김씨는 “한국인들이냐” 물었고, 이에 그 남성은 “한국인부터 동남아까지 다 있다”고 말했다. 호주 시드니에서 워킹홀리데이를 했었던 이재현(29)씨는 현지에서 일하는 프랑스 친구로부터 “호주 시드니에는 한국인 여성들이 성매매를 하는 것으로 유명하다”는 말을 들었다. 그 프랑스인은 “자신도 한번 한인 여성과 관계를 가졌는데, 다른 나라 여성보다 훨씬 나았다”며 “나중에 섹스여행으로 한국에 한번 가보고 싶다”고 말했다. 한국 여성들의 해외 원정 성매매가 심각한 수준으로 치닫고 있다. 해외원정 성매매 여성은 대부분 20대로, 돈을 벌기 위해 자발적으로 해외 성매매에 나서거나 사채업자에게 빚을 져 이를 갚기 위해 나서는 경우도 있는 것으로 알려졌다. 또한 국내 성매매특별법 강화로 일자리를 잃은 여성들도 해외로 나가 성매매를 하고 있다. 더욱이 최근에는 이혼녀를 비롯해 대학생들도 해외 성매매에 가담하고 있어 충격을 더하고 있다. 이와 관련해 본지는 해외성매매의 실태와 이에 따른 피해여성들의 사례를 집중 조명해 봤다.
취재/이상호 기자
외국에 나가 언어도 배우고 돈도 벌 수 있는 ‘워킹홀리데이’ 비자를 발급받아 원정 성매매에 나서는 여대생들이 늘고 있다. 서울의 한 사립대학을 휴학한 김(22)씨는 방학이면 어학연수를 떠나는 친구들이 부러웠다. 그러다 김씨는 한 친구에게 영어도 배우고 돈도 벌 수 있다는 ‘워킹홀리데이’를 알게 됐다.
대학생, ‘워킹홀리데이’ 비자 발급후 성매매
첫 해외여행을 준비하며 꿈에 부풀어 있던 김씨에게 도움을 준다며 친구는 호주에서 숙박업을 한다는 박(48)씨를 소개했다.
초반 박씨는 김씨에게 호주와 관련된 여러 가지 정보를 제공했다. 그러다 박씨는 김씨에게 “기왕 외국에 나가는 것인데 한인들과 어울리지 말고, 외국인만을 대상으로 일을 할 수 있는 곳이 있다. 더욱이 보수도 꽤 높은 일자리다”고 말했다.
박씨가 말한 그 일은 바로 호주 현지인을 상대로 하는 알몸마사지였다.
큰돈을 벌 수 있다는 말과 해외라면 자신을 알아보는 사람이 없을 것이란 생각에 결국 김씨는 박씨의 제안을 받아들였다.
시드니에 도착한 김씨는 바로 박씨가 운영하는 마사지 업소에서 합숙을 하게 되었고, 그곳에서 김씨는 자신과 나이가 비슷한 대학생 두명을 만났다.
그 업소에는 여대생뿐만 아니라 한국인 여성 10여 명이 함께 윤락행위를 하고 있었다.
김씨가 업소에서 호주인을 상대로 알몸마사지와 성매매의 대가로 받은 돈은 한화로 약 18만원, 이 중 8만원이 김씨의 몫이었다.
김씨는 본지와의 통화에서 “현재 호주 내에는 나와 같이 돈을 벌기 위해 워킹 비자로 일(성매매)을 하는 대학생들이 많이 있는 것으로 알고 있다”면서 “호주 자체는 성매매가 불법이 아니어서 사실상 죄책감이나 수치심보다는 돈과 영어공부에 대한 욕심이 더 크다”고 말했다.
호주에는 현재 한인 여성들 1000명 정도가 성매매를 하고 있다. 이 같은 수치는 호주 내 외국인 성매매 인구 중 16%가량으로 파악된다. 특히 김씨와 같은 대학생들이 워킹홀리데이 비자를 발급받아 성매매를 하는 경우가 8~10%정도 되는 것으로 알려져 있다.
사채빚, 해외 원정 성매매…마약까지
워킹홀리데이를 통한 자발적 해외 성매매도 큰 문제지만 사채빚에 시달리다 해외로 팔려나가는 여성들은 더욱 큰 사안이다.
지난해 부산에서는 한무리의 조직폭력배들이 보도방 업주들에게 보호비 명목으로 돈을 받아 챙기면서 업소 종사자 여성들에게도 강제로 고금리 사체를 쓰게 한 사건이 있었다.
이들은 업소 종사 여성들에게 터무니없는 고금리 사채를 강제로 떠안기며, 갚지 않을 경우 일본 및 호주로 팔아넘긴 것으로 드러나 충격을 주었다. 더욱이 이들은 해외로 여성들을 팔아넘기면서 성형비용, 비자발급비용, 비행기표 등 역시 여성들의 빚으로 넘긴 것으로 알려졌다.
문제는 이뿐만이 아니었다. 해외로 팔려간 여성들은 성매매를 하면서 업소주인에게 받은 마약에 손을 대기 시작했다. 업소 주인들은 “손님을 한 명이라도 더 받으려면 이거(마약)라도 하고 해야 한다”면서 반강제로 마약을 여성들에게 제공했다.
서울지방경찰청은 일본 성매매업소 취업을 희망하는 국내 여성들을 모집해 일본 원정 성매매를 알선한 일당 24명을 불구속 입건했다.
이들 일당은 여성들에게 “한 달에 3000만원 상당의 거금을 벌 수 있게 해주겠다”고 속여 성매매를 알선하고 10억원가량의 이득을 챙긴 혐의를 받고 있다.
경찰 조사에 따르면 이들 일당은 지난해 8월부터 약 1년 동안 사채 등으로 힘들어하는 국내 여성등을 모집해 1인당 100만원의 소개료를 받고 일본 성매매업소에 취업을 시켰다. 여성들은 일본 남성 1인당 시간에 따라 2만~15만 엔(한화 30만~190만원) 상당의 돈을 받은 것으로 밝혀졌다.
20대에서 40대의 다양한 나이로 구성된 해당 여성들은 여대생과 대학원생, 유흥업 종사자, 이혼녀들로 “단시일에 많은 돈을 벌 수 있고, 해외라 익명성이 보장된다”는 말에 현혹된 것으로 조사됐다.
이 과정에서 여성들은 직업소개소를 통하거나 이미 일본에 간 여성들로부터 정보를 받고, 사이트에서 신청하는 식으로 일본 원정 성매매에 나섰다.
하지만 여성들은 비행기 티켓(60만원 상당), 의류 구입비, 차량비, 누드사진 촬영비, 휴대전화 사용료, 숙소비 등으로 성매매 전 이미 500만원 상당의 빚을 지게 됐고, 월 10% 이자를 무는 신세가 됐다.
몰카에 폭행까지…추가피해
앞 서 밝힌 부산 조직폭력배 원정 성매매 사건에서 한 피해여성은 일본인 성매수 남성이 자신과의 성관계 장면을 몰래 촬영해 P2P사이트에 올려 2차 피해를 본 케이스다. 이 동영상은 ‘원정녀’등의 제목으로 21편이 이미 인터넷에 퍼졌다. 동영상에는 한국 여성이 등장한다는 것을 알 수 있는 노골적인 제목도 달렸다. 그리고 일본 내에서 운영되는 유료 사이트에 게재됐는데 남성의 얼굴은 철저하게 가렸지만 여성들의 얼굴은 숨김없이 드러낸 점, 광복절 전날 게재된 점 등 다분히 한국을 폄훼하기 위한 의도성이 엿보인다.
호주에서는 한 20대 백인 남성이, 국제 인신매매조직에 걸려들어 호주 한 사창가의 성 노예로 전락한 한국인 여학생을 구하려다 참혹하게 살해된 사건이 발생했다. 2009년 2월12일 호주 사우스 멜버른 요크가 59번지, 한국·중국인 여성 전문 성매매업소 앞길에서 27세의 유대인 에이브람 파포로가 턱뼈가 산산이 조각나 있었고, 코뼈와 두개골은 부서졌고 양팔 조직, 기도 모두 손상돼 사망했다. 범인은 성매매업소에서 운전기사로 일하는 중국인 더 준 쳉으로 밝혀졌다. 그는 손님과 매춘여성을 한번 태워줄 때마다 10달러씩을 받았다.
경찰 조사 결과, 에이브람은 사건 당일 ‘케이티’라는 이름을 쓰는 20대 한국인 여성을 구하기 위해 성매매업소를 찾아갔던 것으로 나타났다. 에이브람은 가족들과 함께 사는 자신의 집에 케이티를 데려와 수개월간 동거했던 것으로 전해졌다.
사건 당일, 에이브람은 케이티에 전화를 걸었다가 그녀의 울음과 비명을 들은 것으로 전해졌다. 에이브람은 통화를 계속하려 했지만, 누군가가 케이티의 전화기를 가로채 “이 여자 근처에 얼씬거리면 토막을 내놓겠다”고 말한 뒤 전화를 끊어버렸다.
에이브람의 형 데이비드는 “동생은 ‘케이트가 성매매 일을 강요당해왔으며, 이제는 시드니로 강제로 옮겨졌다’고 했다. 그러고는 성매매업소 사람과 언쟁을 벌인 뒤 집을 나섰다”고 말했다.
호주 경찰은 “한인을 비롯한 호주 내 원정 성매매 여성들의 인권피해가 심각한 상황”이라면서 “이 사건 역시 호주 내에서 벌어지는 아시아계 여성들의 인권피해 상황과 맞물려 있다”고 밝혔다.
당국 대책은?
경찰은 최근 “외교통상부와 합동으로 원정 성매매 예방 및 단속 활동을 강화해 해외에서 국가 이미지 실추를 막을 것”이라고 발표했다. 실제 경찰은 지난 8월22일부터 9월30일까지 40일간 해외 성매매를 집중 단속한 결과 총 225명을 검거하기도 했다.
외교 당국도 호주 내 원정 성매매를 하는 여성들을 강제 소환하는 조치를 취할 것으로 알려졌다. 13일 외교부는 전날 문하영 재외동포영사대사를 호주에 파견했다.
문 대사는 호주 외교부의 영사 담당 차관보와 경찰 관계자 등을 만나 한국 여성의 매춘과 관련된 인신매매, 불법 입국 등을 막기 위한 공조 방안을 협의할 계획이다.
정부 관계자는 “지난 2004년 한국에서 성매매특별법이 제정되면서 성매매 단속이 강화되자 한국 여성들의 해외 원정 매춘이 증가하고 있다”며 “국제적으로 문제가 된 만큼 이와 관련한 일당들을 검거하는 한편, 이 같은 일을 통해 국가적 체면이 떨어지는 일이 없도록 하겠다”고 말했다.
하지만 해외 성매매와 관련해 피해를 입은 여성들은 이 같은 당국 대책에 대해 회의적이다.
한 피해 여성은 “외국에서 매춘을 하는 한국 여성이 10만 명에 이른다는 분석도 있다”면서 “이렇게 많은 숫자가 해외 성매매를 하는 구조적인 문제는 국내에서 여성을 모집하는 브로커와 현지 취업 알선책, 유흥업소 운영자 등이 개입돼 있기 때문”이라고 말했다.
전문가들 역시 “원정 매춘 단속이 쉽지 않은 것이 현실이다. 외국 곳곳에 퍼져 있는 성매매 업소를 일일이 점검하기는 물리적으로 제약이 많다. 더구나 호주처럼 성매매가 합법인 나라에서는 허가를 받은 등록업소는 성매매가 가능해 양국 관계당국 간 공조를 모색하기도 어려운 측면이 있다”면서 “국내에서 여성을 꼬드기는 브로커에 대한 단속을 강화하는 것이 핵심이다. 이들을 통해 국제적인 매춘조직 실체를 밝혀내 현지 수사당국에도 정보를 제공함으로써 일당을 잡아들이는 데 역점을 둬야 한다”고 말했다.
235st@hanmail.net
http://pann.nate.com/b319427681
호주갔다온 한국여성의 몇 %가 성매매를했을까???
남성 (판) 2013.09.25 15:14 조회273
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호주는 워킹홀리데이 비자를 받기가 좋아서 대학생들이나 취업준비생들이 주로 어학연수 코스로 오는곳이지
근데 몇년전부터 한국인 원정 성매매가 문제가 좀 됐어
아침에 창녀왕 한국 이란 일베를 보고 호주는 어떨지 조사 해봤다
일단 호주에 한국인 워킹홀리데이 숫자를 찾아봤어
호주가 제일 많더라
2005년 부터 총 워킹으로 온 한국인 수가 207,812명
호주내 한인 원정성매매가 문제가 된게 2005년 말 부터 2006년 초에 시작됐으니까
2004년 성매매특별법 제정이후 원정성매매로 나온 여성이 급증하지
워킹으로 온 수중에 60%정도가 여자 같지만 확실치 않으니 50%가 여자라고 잡아봤어
2012년 자료는 없으니 평균잡아 30,000명을 더해주고
237,812명을 반으로 나누면 103,906명이 여자야 하지만 실제로 여성의 비율이 더 높다고 느껴져
최소 10만명인거지
그럼 이제 한해 호주내에서 성매매 비스무리 한것을 하는 한국인 여성을 찾아봐야지?
일단 정부 조사보다 현지 조사를 해보자
호주내 워킹의 60%정도는 시드니에 몰려있어
그럼 한해 15,000명 정도의 워킹 여자들중 60%면 9,000명 정도겠지?
먼저 호주의 성인 산업은 마사지 샵, 풀 샵, 노래방(룸) 이렇게 크게 세부분으로 나누는데
그중 풀샵은 sex를 하는 곳이고 마사지는 한국의 대딸방이라고 보면돼
노래방은 한국의 노래주점 정도 돼
호주 지역신문 뒤에는 성인광고란이 있는데
그중 한국인 중국인들이 많이 사는 지역의 지역지야
한번 세어 보았더니 86개정도 광고가 있어
일단 시드니의 마사지 샵은
마이다스, 마스티지, 로미오, 줄리엣 이렇게 유명한곳이 네군데 인데
네군데 전부 한국인이 95% 이상이야
가끔 일본애들 있긴한데 100% 한국인이라고 봐도 무방해
물론 리셉션(프론트)도 전부 한국인이지
대딸방 네군데인데 아가씨 숫자는 비슷해
대충 20~30명 정도가 로테이션으로 돌거든
그럼 20명으로 잡고 (물론 더 된다고 봐 하지만 여기저기 도는 애들도 있으니까 20명으로 잡자) X4 하면
80명이지?
보통 3개월이면 물갈이가 된다고 보니까
80 X 4 = 320
320명 정도가 연평균 대딸방 일하는 한국 아가씨 수라고 추정돼
물론 실제로는 더 많다고 예상돼
다음엔 풀샵인데
시드니에 한국인만 있는 풀샵은 세군데야 주인이 한국인인데 브로커가 한국에 이쁜애들을 직접 수속해서 불러와 얘네는 점조직이라 족쳐도 소용없대
풀샵 세군데에 평균 20명 정도 있으니
마사지처럼 계산 해보면 한국인 풀샵엔 1년에 240명 정도 일하는 거겠지
하지만 외국인 풀샵도 최소 5명씩은 한국인이 있어
외국인 풀샵중 최소 5명 이상 한국인이 있는곳은 시드니에 일단 6개를 알아
그럼 5 X 6 = 30명 3개월에 한번 물갈이 되니까 30 X 4 = 120명
그외 군소 풀샵들도 한국인 없는곳은 없거든
100군데가 넘는 샵중에 한명씩으로 치면 그것도 400명은 나오네
풀샵 + 마사지샵 일하는 한국 애들이 년 320 + 240 + 120 + 400 = 1080명이 나와
하지만 실상은 더 될 거라고 생각돼 심각한 수치야
이제 노래방인데
호주에선 2차가 불법이야
술을 팔아도 되고 몸을 팔아도 되는데 술과 몸을 같이파는 시스템이 없어서인지 불법이래
걸리면 문 닫아야 하지
하지만 노래방엘 다니는 이유는 한국의 대학생들이 보통 노래방일을 해
걔들은 한국 선수들 보다 멍청멍청해서 꼬셔서 작업하는 경우가 많아
외국이고 하니까 잘넘어 와
시드니에 노래주점은 15개 정도 있는데 굵직한거 몇개 말고는 생겼다 없어졌다를 반복해
그럼 평균 10개라고 치면
한군데당 아가씨가 15명 정도 있으니
150명 X 4 = 600명 정도가 1년에 일한다고 볼 수 있겠네
그럼 한해에 시드니에서 몸팔고 가는 김치녀들의 숫자는 1680명이야
이게 최소치라고 자부할 수 있어
시드니 9000명 여자 워킹 김치중 1700명 가량이 몸을 판 거야
시드니만 1700명이고 호주전체로 계산하면 2800명이 넘어가지
물론 호주 전국의 유명 성인샵에서 한국인이 없는샵은 광주 시청앞에서 슨상님 욕 1시간 하고 살아돌아올 확률보다 낮다고 봐
2005년 부터 작년까지 계산하면 총 19,742명의 김치가 몸을 팔고 온거야
다시 냉정하게 계산해 볼께
한국에서 일을 안하다 호주와서 처음 하는 애들도 있어
그런애들이 반이라고 봐도 펍에서 백인들한테 대주는 애들 천지니까 호주에 와서 수건가 되어 돌아가는 김치녀의 수는 2000명 이상이라고 추정돼
물론 그 이상일 꺼라고 강하게 믿어
이제 왜 호주 갔다온 여자애 사귀지 말라고 하는지 알지?
호주갔다온 김치 만나서 ㅅㅅ 하면 허공의 삽질이 뭔지 느끼게 될 수 있어
그걸 의식해서 인지 호주에서 번돈으로 한국가서 이쁜이 콤보 수술 받더라
호주에 대물중의 대물은 레바논 형님들인데
평균 ㅈㅈ크기가 팔뚝이라고 보면 돼
물론 김치들은 성님들껀 잘 못받지만 받는애들도 상당수야
결론은
호주내 돈주고 몸파는 한국여성 연 2800명 정도 예상
호주내에서 몸팔고 올 한국여성 비율 20%
호주내에서 ㅍㅍㅅㅅ하다올 한국여성 비율 99.8%
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